【教書活評03】『人工知能の哲学』
かのアイザック・ニュートンが遺した言葉「巨人の肩の上に立つ」。科学の文脈を表す格言として、論文検索エンジン『Google Scholar』のトップページにも掲げられている。僕の教室でもよく「哲学」と「宗教」の違いを聞かれることがあるが、まさに「巨人の肩の上に立つ」のが哲学である。先人の積み重ねが受け継がれて更に積み上げられ、巨人になっていく。それこそが哲学的成果である。翻って宗教は原点こそがアイデンティティである。巨人になるのは初心を忘れてしまった者だけだ。
さて、近い将来、AI・ロボット時代が訪れて私たちの生活が大きく変わるといい、その影響について、あらゆる業界で話題になっている。未来学者レイ・カーツワイルが、2045年にコンピュータが人間の知性を凌駕すると予測したことに端を発する「シンギュラリティ(特異点)」問題である。とりわけ教育界におけるインパクトは大きく、現場や保護者が戦々恐々としている(このような状況を僕は「シンギュラリティ・シンドローム」と呼んでいる)と同時に、それをビジネスチャンスと見る業界関係者も散見する。この第三次人工知能ブームにおいて、重大な論点が見過ごされているのではないか、と問題提起するのが今回紹介する『人工知能の哲学』(松田雄馬・東海大学出版部)だ。
本書は文字通り人工知能についての論考なのだが、人間らしさや人間の知能とは何かを掘り下げることで、教育現場で役に立つであろう視点が豊富に提示されている。中でも特に学ぶことができるポイントとして以下の3つが挙げられる。
(1)本当に「仕事」が減るのかなど、真に受けずクリティカルにに精査する視点
(2)「知能」をはじめ、言葉の定義や使われ方の差異への気づき
(3)分からないことやできないこと、違和感を認めることの科学的重要性
●本当に「仕事」がなくなるのか
AI・ロボット時代に必要な力とは何か。教育界隈では「仕事」がなくなってしまうという話ばかりが流布し、あたかも「職業」がなくなるというように捉えられている。そもそも「仕事」というふうに括ること自体が乱暴で無責任である。「仕事」というカテゴリの中にはおそらく「職業」「労働」「作業」といった意味合いが曖昧に投げ込まれている。人工知能を「強いAI(人間のような知能を持つ)」と「弱いAI(人間のような知能の代わりの一部を行う)」という二種類に分類したのは哲学者ジョン・サールであるが、現在加速度的に進化をしているのは「弱いAI」と呼ばれる方のいわば計算機で、我々がイメージしがちな人間に取って代わる「強いAI」はいまだ実現していない。
すなわち、演算がどこまでスピードアップしたところで、人間の知能に追いつくわけではないのだ。演算処理が高速化することで「作業」などはAI任せにできるようになるが、臨機応変で適切な判断をすることは「弱いAI」には出来ない。環境の変化に合わせて新しいアルゴリズムが必要になるからだ。あらゆる職業において、環境は変化する。言い換えれば、すべての職業は不確実性(予測不可能性)の中にあるといえる。つまり作業だけではなく臨機応変な判断が必要なのである。当然、環境の変化に伴うルールの変更・調整も「弱いAI」には対応できない。(ルールについては連載第2回『ルールリテラシー 共働のための技術』を参照されたい)今一度「職業」「仕事」「労働」「作業」などの言葉が指し示す概念を整理して考える必要がありそうだ。
●教育者の立場と科学者の立場
著者の松田雄馬氏は、京都大学で地球工学を専攻した後、NEC中央研究所に所属して「ブレインコンピューティング」研究に携わり、東北大学で博士号を取得している。その中で情報科学の最先端を走りながら「この情報化社会、何かがおかしい」と肌で感じてきた。松田氏はよく「なんかモヤモヤしているんですよね」という話をする。僕が出会ってきた科学者の中では極めて教育者的な感覚を持っている。分からないことがあることを、そのまま表現するのだ。かつて物理学者で俳人でもあった寺田寅彦は、よく分からないことや不可解なことを簡単に説明してしまうことの危険性を説いた。うまく説明出来そうな理論があっても、それを安易に使うことを疑う感性こそが科学には必要だと喝破した。
説明出来ることだけを口にして、できないことはスルーする。これは教育現場であまりにも目にすることが多い光景だ。しかし、そんな教師に生徒たちは疑問を感じ、背を向け始めている。もちろん今に始まったことではないが、それこそ加速度的に、そういう感性が育っていると感じる。オルタナティブ教育や、探究型教育が注目されてきているのも無関係ではない。分からないことは分からないとしてアウトプットし、生徒と共に考え探求するスタンスこそ、これからの教育に求められる対話的方法であると思う。本書は、松田氏が「モヤモヤ」に立ち向かい、自らの専門領域にメスを入れ、専門外の読者に誠実に伝えようという葛藤の記録である。その実践自体に、教育者が学ぶべき方法がある。
●人間は自ら意味を作り出す
松田氏は、人間にできて機械にできないことは「自ら目的や意味を作り出す」ことではないかと提議する。では、意味とは何だろうか。曰く、自分自身の物語の中で、存在を位置付けて関係を見出すことである、と。
『夜と霧』で有名な心理学者ヴィクトール・フランクルは、自分の人生をできるだけ意味のあるものにしたいという欲求こそが根本的な意志であるとした。彼はナチスの強制収容所での体験から、限界状態の人間が、フロイトの言う「快楽」や、アドラーの言う「力」などではなく、自身の生きる「意味」を求めるのを目の当たりにしたのだ。そのことを『意味への意志』に論考としてまとめている。
であれば、たとえAI・ロボット時代が訪れた後も、教育者が変わらずできることは、自ずと明らかになってくる。意味を引き出すサポートである。そうすることで、自分自身の物語もまた豊かに意味付いてくる。意味があれば、その存在を持続しようとする〈いのち〉が生じるのだ。これは本書でも引用されている清水博氏の「場の論理」とも符合する。
「技術」だけでなく「思想」の上に立つ。松田氏はニュートンの言葉をそう解釈した。違和感やモヤモヤに立ち向かい、歴史や多領域へと探究を広げる中で自分たちが拠って立つべき「思想」が形作られていったという。そうやって〈いのち〉が吹き込まれた巨人の肩は、きっと科学を次のステージに運んでくれるに違いない。それは、たくさんの教育の物語とも交差しながら未来の世界に織り込まれていくはずである。(矢萩邦彦/知窓学舎・教養の未来研究所)
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