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【教書活評02】『ルールリテラシー 共働のための技術』

矢萩邦彦アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

生徒たちの多くは、「厳しい先生は苦手」だという。また、「優しくて自由にやらせてくれる先生は好き」だという。しかし、よく観察してみると怒らず自由であれば好かれているかというと、そんなこともない。連載第1回(『17歳のための世界と日本の見方』)でも言及したが、生徒は楽をしている講師をリスペクトしない。また、その言動にどこか筋が通っていることも必要な条件である。「自由な雰囲気」を醸しつつ、生徒たちをまとめ、クラスを1つのベクトルに向かわせる。どのようにしたらそんな理想的なクラス運営ができるだろうか。「ルール」という切り口から考えてみたい。

●ルールは〈ゲーム〉を共有し運営する技術である

教育現場で「ゲーム理論」や「ゲーミフィケーション」というキーワードが出ると難色を示す人は多い。どうやら〈ゲーム〉という響きが教育と相容れないと感じるようなのだが、このように先入観や固定観念が邪魔をして教育に活用される道が狭まってしまっている方法は枚挙に暇が無い。確かに安易に導入しようとするのは浅はかだし、僕自身、打算的に合理を追うような提案には閉口することもあるが、真剣に向き合うのであれば、視点として有用な部分も多い。

今回紹介するテクスト『ルールリテラシー 共働のための技術』(佐藤裕・新曜社)では、稀代の哲学者ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という概念をベースに、ルールの機能とその守破離を解説している。

本書では、〈ゲーム〉とは何かを目指して努力する「志向的な営み」のことであると定義している。そう考えればほとんどすべての組織や集団は〈ゲーム〉をしているということができる。システム理論においても目的がある集団がシステムとして機能する要件になる。つまりクラスは1つのシステムであり、〈ゲーム〉が行われている場であると言える。その場を活かし運営するために「ルール」がある。そういう前提で話を進めたい。

最初に本書の中で特に教育現場で有用だと思われるトピックをまとめておく。

(1)ペナルティーによってルールを守らせることはできない。

(2)ルールは社会的カテゴリーと結びつけられることによって論理的な強制力を持つ。

(3)禁止のルールを「ルールとして」運用するためには、禁止されていることをしない代わりに何をしなくてはならないのかが明確にイメージできていなくてはならない。

●「禁止」や「ペナルティ」には意味が無い

クラスでのルールといってまず思い浮かぶのは、「授業中私語を慎む」とか「カンニング等の不正行為をしない」などの「禁止ルール」あるいは、「○○ができなかったら宿題を増やす」等の「ペナルティルール」ではないだろうか。しかし、これらのルールは、クラスのゲームを運営していく上で本質的に意味が無い。

繰り返すが、クラスは「志向性のある営み」である。例えば塾や予備校ならば、実力を上げるとか、受験に合格するとか、あるいは興味開発や能力開発といった目的ある〈ゲーム〉の場である。であれば、その本来の目的や志向性を目指している限り、私語やカンニングは達成を阻む行為でしかない。ルールを守らないならば、即ちその集団に所属している意味が無くなってしまうのである。

また、そもそも意味の無い行為を禁止することで、より目的がブレて認識されてしまう恐れがある。つまりカンニングをすることは、「興味を見つける」でも「実力を上げる」でもなく「良い点数を採る」ことに目的が挿げ替わってしまっている。私語をしないことも同様で、厳しく禁止すればするほど「実力を上げる」ためではなく、「怒られないため」にルールを守るようになり、本来のクラスの〈ゲーム〉から外れて「ペナルティーを避けるゲーム」のプレーヤーになってしまう。

●言語ゲームとしてのクラス

新曜社より2016年発行
新曜社より2016年発行

どんなルールをどのように使うことが望ましいだろうか。まず、そのルールが場の目的達成と分かりやすい因果関係で結ばれている必要がある。例えば、予備校であれば「入学試験に合格する」という明確な志向性がある。自ずと「受験科目の講義を受講すること」「宿題や課題をこなすこと」「模擬試験を受けること」などは必然性を帯びる。いわば暗黙のルールである。しかし、それらの志向を阻むようなメンバーが現れた時に、「講義中に他の生徒の邪魔をしない」ことや「テスト中に不正行為を行わないこと」などがルールとなり、それを守ることでクラス全員の〈ゲーム〉が目的達成に向けて進行する。

ではどのようにルールを使用し、〈ゲーム〉を運用していけばよいだろうか。僕が現場で実践している中で効果があると感じている1つの方法は、「当たり前になって見えなくなってしまっている目的を、頻繁に確認する」ことである。あの世阿弥ですら「初心忘るべからず」と念を押すくらいなのだから、忘れてしまいがちなのである。だからこそ、今自分たちが何のためにここにいるのかを、日々確認することで、自分たちの〈ゲーム〉に真剣に向き合う心構えが保たれる。

僕が関わる教室では「より豊かに生きるため」という志向性を提示している。そのためには、「やりたい」ことをみつけ、それが「できる」ようになり、さらにそれを社会のために「やるべき」ことに活用することを目指している。そのプロセスとして教室での時間がある。だから自ずと「相手の話をしっかりと聞く」ことや、「提示されたコンテンツに触れてみる」ことは、〈ゲーム〉を進める上で必要不可欠となる。また今自分がしている行動が「自分のため」あるいは「他者のため」になっているかどうかを問うことで、常に軌道修正をすることができる。

●「禁止」と「ルール違反」の対応

必要に迫られて「禁止」をルールにする場合、まず禁止されていることをしない代わりにどうすれば良いかを提示することが必要である。例えば、「私語は禁止」だが「どうしても話をする必要があるなら、教室の外に出る」とか、「携帯の使用は禁止」だが「携帯で調べたいのなら、音を消す」など。集中力を回復するために飲食をしたい、あるいは仮眠を取りたいなどの場合も、周囲への影響を考えて別の場所を用意するなどすることで、やる気があるのに〈ゲーム〉から離脱する生徒を減らすことができる。

それでもルールを破るメンバーが出て来た時にはどうすれば良いか。荒れるクラスや、まとまりのないクラスによくある原因が、「ルールを破った生徒への対処ままずさ」である。ルールを破った場合は〈ゲーム〉から「排除」するという方法が考えられるが、本書では、これはルールを維持するための方法にしかならず、あくまでクラス全員で目標を達成するためには「免責」や「赦し」という方法をとる必要があると指摘している。現場ではこれらの対処が一番難しい。ルール違反をした当人のみならず、全員が納得する必要があるからである。かといって、「免責」や「赦し」をせずにメンバーで有り続けてしまうとルール違反を正当化してしまう。確固たる規準を持ち、かつ臨機応変に対応することが求められる。実はこれらのルールマネジメントが、いわゆる「ゆとり教育」の影響や、「シンギュラリティ問題」に向けた教育において最も重視すべきポイントでもある。これらについてはまた別の機会に取り上げたい。

以上、非常にシンプルな方法だが、目的を常に確認し、ペナルティーを課さず、禁止する場合は条件を提示し、ルールを破った場合は全員が納得する形で免責・赦しをすることで、クラスの〈ゲーム〉は保たれる。連載の特質上、クラスの喩えに終始したが、友人関係や家族、サークル、プロジェクトなど、あらゆる集団組織においても有用なヒントがあると思う。シンプルなことこそ、見落としてしまう甘さが生じやすく、その積み重ねで瓦解してしまう組織は多い。人と人との繋がりや信頼について、客観的な視点も忘れないようにしたい。(矢萩邦彦/知窓学舎教養の未来研究所Terra Academy

アルスコンビネーター/知窓学舎塾長/多摩大学大学院客員教授

1995年より教育・アート・ジャーナリズムの現場でパラレルキャリア×プレイングマネージャとしてのキャリアを積み、1つの専門分野では得にくい視点と技術の越境統合を探究するアルスコンビネーター。2万人を超える直接指導経験を活かし「受験×探究」をコンセプトにした学習塾『知窓学舎』を運営。主宰する『教養の未来研究所』では企業や学校と連携し、これからの時代を豊かに生きるための「リベラルアーツ」と「日常と非日常の再編集」をテーマに、住まい・学校職場環境・サードプレイス・旅のトータルデザインに取り組んでいる。近著『正解のない教室』(朝日新聞出版)◆ご依頼はこちらまで:yahagi@aftermode.com

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