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巨大地震、大噴火、大火、飢饉が頻発 天下泰平だった徳川綱吉から吉宗の時代

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

天下泰平の中、災禍が続いた綱吉から吉宗の時代

 江戸幕府は4代将軍・家綱に跡継ぎの男子がいなかったため、家綱の死後、弟・家光の4男の綱吉が1680年に5代将軍に就きました。綱吉の治世は29年に及び、柳沢吉保を重用して文治政治を進めましたが、1687年に生類憐みの令を出します。1702年には赤穂浪士の討ち入り事件も起きました。綱吉の時代は、1688年から1704年に続く元禄時代に重なるため、元禄文化とよばれる庶民の華やかな文化が育まれました。この間、各地で大火があり、元禄地震や宝永地震、富士山の宝永噴火などが起き、飢饉にも見舞われます。

 綱吉には男子がいなかったため、死後は家光の孫の家宣が1709年に6代将軍になります。家宣は、間部詮房や新井白石を重用し、生類憐みの令を廃止し正徳の治を進めました。家宣は就任3年後に落命し3歳の家継が1713年に7代将軍に就き、詮房と白石が後見人になりました。しかし、家継も3年で亡くなったため、紀州徳川家から吉宗を迎え、1716年に8代将軍に就任しました。吉宗は、質素倹約を旨とし、享保の改革を推し進め、幕藩体制を整えました。吉宗の治世は1745年まで30年弱続き、将軍を家重に譲ったのちも大御所として力を奮い、1751年に死去します。

欧州での英仏の対立が新大陸・インドにも波及

 この時期、ヨーロッパでは、1688年にイギリスで名誉革命が起き、オランダのウィリアム三世が英国王を兼ねることになりました。同時に、英仏の間で、第二次百年戦争とよばれる一連の戦争が始まり、植民地の領土争いが激しくなりました。フランスのルイ14世の膨張政策の中、ネーデルランド継承戦争や仏蘭戦争、大同盟戦争と続き、さらに、1701年にスペイン継承戦争、1740年にオーストリア継承戦争が起きて、英仏が対立します。これらの戦争と連動して、アメリカやインドでも、戦乱が繰り広げられました。

 こういった中、イギリスが優位に立ち、さらに、ノーフォーク農法と呼ぶ輪作農法により農業の近代化を進め、1733年には、ジョン・ケイが発明した飛び杼により織機の能力を大幅に向上させることに成功し、農業革命と産業革命によってイギリスが台頭していきます。

綱吉の将軍就任と共に起きた大火

 綱吉が将軍に就任して3年後、1683年1月25日に江戸で天和の大火が起き、3500人余り死亡しました。この大火で焼け出された八百屋お七が疎開先の寺の小姓と恋仲になった話は、井原西鶴の「好色五人女」でも取り上げられ、お七の火事とも言われます。1700年前後には、大火が続きます。1698年10月9日には、勅額火事とよばれる火事が京橋で起きました。大名屋敷や寺院が焼け3000人が死亡したと言われます。この火災で焼失し、本所に転居した吉良邸は、1702年の赤穂浪士の討ち入りの舞台となります。

 1700年3月27日には、名古屋で城下の西半分が焼失する元禄の大火がありました。堀川沿いの広幅員の四間道に今も残る風情ある蔵や屋敷は、この火事の後、焼け止まりとして作られました。さらに、後述する元禄地震の直後の1704年1月6日には、小石川の水戸藩上屋敷から出火・延焼した水戸様火事が起きました。さらに1708年4月28日には、京都で内裏など1万戸以上が焼失する宝永の大火が、翌1709年2月8日には大阪で8千戸が焼失する道修町焼が、同年3月16日には仙台で城下町のほとんどが焼失する仙台大火が起きるなど、当時の代表的な町が大火に見舞われました。ちなみに、江戸時代の改元理由で火災によるものは8回もあります。

巨大地震発生前の災害

 1688~1704年の間に、東北地方を中心に、凶作・不作が頻発し、1695年と1702年にはそれぞれ数万人もの人が餓死したと言われています。また、被害地震も起き始めます。

 1683年には日光東照宮のおひざ元の日光周辺で群発地震が続き、10月20日には、関谷断層で日光地震が起き、山崩れで川をせき止め五十里湖ができました。この湖は、40年後の1723年の大雨で決壊し、下流域で1000人以上が犠牲になります。1694年6月19日には、秋田の能代断層帯で能代地震が起きました。

 さらに、1700年1月26日には、アメリカ西海岸で起きた超巨大地震・カスケード地震の津波が日本にまで達します。西部開拓が始まる150年前もの地震のため、アメリカの文書には残っていない地震で、地盤の津波堆積物調査で見つかった地震です。日本の古文書に記された津波記録から地震発生日が分かりました。1960年チリ地震津波と同様の遠地津波です。

相模トラフ沿いの元禄地震

 1703年12月31日に、相模トラフ沿いを震源域とする元禄関東地震が起きました。大正関東地震より規模が大きく、房総半島や相模灘沿岸を大津波が襲い、とくに小田原宿から川崎宿にかけて揺れによる被害も甚大でした。江戸も、本所、神田、小石川を中心に大きな被害を受け、江戸城の石垣や櫓、門も崩れました。地震後の江戸の様子は、新井白石の「折りたく柴の記」に詳しく描写されています。

 ですが、大正関東地震と比べて犠牲者は多くはありませんでした。その大きな理由は、まだ、城下が沖積低地に余り広がっていなかったことにあると思われます。翌年、この地震を受けて、元号が元禄から宝永に改元されました。実は、元禄地震とほぼ同時に、豊後でも地震がありました。また、翌1704年5月27日には日本海沿岸部で羽後・陸奥地震が発生しました。元禄地震の発生に伴う誘発地震なのかもしれません。

南海トラフ沿いの宝永地震と富士山の宝永噴火

 1707年10月28日には、南海トラフ沿いで宝永地震が発生しました。有史以来最大の南海トラフ地震です。静岡以西の広域に強い揺れと津波が襲い、甚大な被害となりました。安部川上流では大谷崩れと呼ぶ大規模土砂崩壊もありました。被害の様子は、尾張藩士の朝日文左衛門の日記『鸚鵡籠中記』や堀貞儀が記した『朝林』に残されています。名古屋では、熱田台地上の被害は大きくはありませんでしたが、台地の外側の地盤が軟弱な低地では液状化被害や家屋被害が大きかったようです。大坂でも、上町台地の西側に広がる軟弱な沿岸低地の被害が甚大で、朝林によると、圧死者が5千人、津波による溺死者は1万6千人にも及んだようです。

 宝永地震の翌日には、富士山直下で富士宮地震が起き、49日後の1707年12月16日に富士山が噴火しました。864年貞観噴火以来の大噴火でした。富士山の東側では大量の火山噴出物で、長期間にわたり農産物の被害や河川災害が続きました。江戸にまで達した降灰の様子は、「折りたく柴の記」にも記されています。同様の噴火が今発生したら、首都圏は停電・断水・交通網の途絶で大変なことになります。

この後、1708年2月13日には紀伊半島沖での地震、1710年10月3日には因伯美地震が、1718年8月22日には遠山地震が起き三河や伊那が被害を受けました。

大火・飢饉・洪水が続く中、巨大地震・大噴火からの復興を果たす

 度重なる地震と噴火によって江戸以西の各地は大きな被害を受け、幕府や各藩は財政的にも困難を極めました。元禄文化も終焉し、新井白石による正徳の治や、徳川吉宗による享保の改革が進められました。防災面での吉宗の成果には、町火消制度の創設や火除け地の整備、防火建築の奨励などがあります。

 吉宗の時代には、大阪での享保の大火や、享保の大飢饉が発生します。1724年3月21日には、大阪で妙知焼けとよぶ大火が起き、1万戸以上が焼失し、市中の2/3が無くなりました。さらに、1731~1732年には、ウンカによる虫害で享保の大飢饉が発生し、1万人を超える餓死者が出ます。この飢饉では、コレラによる疫病も広がりました。ちなみに、隅田川の花火は、吉宗が疫病退散のために行った水神祭が起源のようです。

 一方、北海道では大規模噴火が続きます。1739年8月18には、北海道の樽前山が噴火し、今の千歳市でも1m近く降灰します。まさにこの火山堆積物が一昨年の北海道胆振東部地震で大崩落しました。さらに、1741年8月27日には北海道・渡島大島の寛保岳が噴火し、山体崩壊によって大津波が発生して、北海道や津軽で千人以上の死者が出ました。

 さらに、1742年8月30日には、戌の満水とよぶ洪水災害が発生します。千曲川や犀川流域で氾濫し、利根川・荒川でも洪水被害が生じ、3千人弱の死者が出たようです。これは、昨年の台風19号(東日本台風)の被害と酷似しています。

 そして、1751年5月21日に越中・越後で、宝暦高田地震が起きました。高田平野西縁断層帯が活動した地震で、名立崩れと呼ぶ大規模地盤崩落などで千人以上の死者を出します。

 元禄の時代は映画やドラマで取り上げられることが多いですが、このような災禍の存在はあまり知られていません。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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