「自由は当たり前のものではない」抑圧された国から「気球」で脱出した男性が語った本音
「時にはなぜか大空に/旅してみたくなるものさ」
そんな歌詞で始まる『気球にのってどこまでも』。作詞・東龍男、作曲・平吉毅州のこの歌は夢をかき立てる軽快な合唱曲として、多くの子どもたちに歌われてきた。その歌が想起するイメージは、明るくて希望に満ちたものだ。
「気球にのってどこまで行こう/風にのって野原を越えて」
歌はそう続いていく。今から40年ほど前、この歌詞のように気球に乗って風に乗り、国境を越えようとした家族がいた。しかし、その気球飛行はのどかな旅行などではなく、人生をかけた決死の脱出劇だった。
東西冷戦の時代。自由が極度に抑圧された社会主義国・東ドイツから、隣の自由主義国・西ドイツへ、手作りの熱気球で「逃飛行」を試みた家族の物語が映画化された。『バルーン 奇蹟の脱出飛行』(ミヒャエル・ブリー・ヘルビヒ監督)だ。
7月10日から映画館での上映が始まったのに合わせ、映画の登場人物のモデルであり、気球を設計したギュンター・ヴェッツェルさん(65)にZoomでオンラインインタビューをおこなった。
雑誌で見かけた「熱気球の写真」がヒントになった
映画の舞台は、1979年の東ドイツの小都市・ペスネック。人々は社会主義国家への忠誠を強いられ、個人の自由を厳しく制限された生活を送っていた。そんな中、電気技師のペーターと運転手のギュンターは「自由の国」へ、家族と一緒に逃亡することを企てる。
西側への逃走は多くの国民の悲願だったが、大きな危険を伴う。
「西への逃亡に失敗した東独人は1976~1988年で約3万8千名。少なくとも462名が国境で命を落としている。彼らは国家から裏切り者の烙印を押された」
映画の冒頭ではこんな数字が示され、国境で射殺される男性の無惨な姿が描き出される。
通常の手段では成功するのは難しい。二人が脱出の秘策として考えたのは、熱気球に乗って空に舞い上がり、風に乗って国境を越えるという奇想天外な方法だった。
どのようにして、奇抜な脱出方法を思いついたのか。
「きっかけは偶然だった。1978年3月に、西ドイツに住む親戚が雑誌を持ってきた。そこにニューメキシコの熱気球のイベントの写真が載っていたんだ」
ギュンターさんはそう振り返る。
「布を縫い合わせて気球を作り、そこに熱い空気を入れれば、空に浮かぶことができる。そして、フラフラと漂いながら、国境を越えていけばいいんだと気づいたんだよ」
さっそく親友のペーターにアイデアを話して、準備を進めることを決めた。
大きなリスクを冒して「脱出飛行」を試みた理由とは?
映画では、気球を空に浮かべて思い通りに操ることの難しさが描かれるが、ギュンターさん自身は「気球を飛ばすことができれば、うまくいくはずだと確信していた」という。
むしろ恐ろしかったのは、東ドイツの秘密警察「シュタージ」に計画が発覚してしまい、実行に移す前に投獄されてしまうことだった。映画でも、逃亡の可能性を察知したシュタージが捜査を進め、じわじわと二つの家族に迫ってくる様子がスリリングに描かれる。
「計画をだんだん進めていく間に、シュタージの影を感じるようになった」
そう語るギュンターさんだが、発覚の危険性を感じれば感じるほど、なんとしても東から西へ脱出したいという思いが強くなったという。「東ドイツの状況もどんどん悪くなっていたので、絶対に脱出したいという気持ちのほうが恐怖心よりも強かった」
しかし、もしシュタージに捕まってしまえば、残りの人生を地獄のような苦しみの中で過ごさなければいけない。当時24歳だったギュンターさんには、妻との間に2歳と5歳の子どもがいたが、獄中生活となれば、最愛の家族と引き離されてしまう。
そんな大きなリスクを冒してまで、なぜ祖国から脱出したいと考えたのか。
映画の中では、ペーターが息子に向かって「この国では、本当のことを言ってはいけないんだ」と語りかけるシーンがある。表現の自由が極度に制限され、国家による監視が隅々まで張り巡らされた社会。そんな息苦しさから逃れたかったというのが、脱出の理由の一つだ。
だが、ギュンターさんには別の理由もあった。
ギュンターさんの実の父親は、彼が5歳のときに西側に逃亡した。そのために「逃亡者の家族」として苦難の人生を強いられることになり、大学に進学できず、希望の仕事に就くこともかなわなかった。
「本当は大学で物理学を学んで技師になりたいと考えていた。だから、西側に脱出して、その夢を実現したいと思ったんだ」
多くの人が「自由のない国から脱出したい」と願っていた
現在の日本で暮らす我々が「あって当然」だと考えている「表現の自由」や「移動の自由」「職業選択の自由」といった基本的人権が認められない社会。そこで生きていくことの耐えがたい辛さから逃れるために、ギュンターさんたちは気球を使った大胆な脱出飛行に挑んだのだった。
ギュンターさんは現在、ドイツ東部の都市・ケムニッツに住んでいる。旧東ドイツだった地域で、当時は「カール=マルクス=シュタット」と称されていた街だ。
「ベルリンの壁が崩壊してから25年にわたり、仕事で旧東ドイツの地域を回りながら、どう発展していくのかを見てきた。なかにはドイツ統一を批判する人もいるが、私は基本的に良いことだったとポジティブに見ている」
かつてドイツを二つに切り離していた壁はなくなり、どこに住むのも自由となった。表現の自由や移動の自由も保障されている。1990年以降に生まれた若い世代の多くは、それが当然だと考えているだろう。
「しかし」とギュンターさんは言う。「君たちが享受している自由は当たり前のものではないんだぞと、若い人たちに伝えたい」
映画『バルーン 奇蹟の脱出飛行』は、スリルあふれる展開で最初から最後まで息もつかせないサスペンス映画の秀作だ。同時に「実話に基づく物語」としての重みも持つ。
今年6月末、中国で香港の人々の「言論の自由」を大きく制限する国家安全法が成立し、「国家と自由」をめぐる問題がクローズアップされている。日本でも昨年、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」をめぐる騒動を通じて、「自由とはなにか」が改めて議論された。
「かつて多くの人たちが自由のない国から脱出したいと願っていたと、映画を通じて知ってほしい」
ギュンターさんがドイツで口にした言葉は、東アジアで暮らす私たちの胸にも響くのではないだろうか。
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