村上春樹作品に着想を得た「わからない映画」 漂白された早稲田の学生が「不条理劇」を観るべき理由
ノーベル賞候補に毎年名前があがる世界的な作家・村上春樹。その名を冠した交流施設「村上春樹ライブラリー(国際文学館)」が早稲田大学のキャンパスにオープンして3周年を迎えた。この建物で全編撮影された映画『ピアニストを待ちながら』(主演・井之脇海)が10月12日から劇場公開される。俳優陣も「わからない」と口にしたという不条理な劇だ。今の若者が「わからない映画」を観るべき理由とはなにか。同大のシネマ研究会出身で、映画の脚本も手がけた七里圭監督に聞いた。
村上春樹ライブラリーに置かれた「ピアノ」の意味
――この映画は、早稲田大学の「村上春樹ライブラリー」の開館記念として製作されたということです。どのような経緯があったのでしょうか。
七里:最初は「施設のイメージ映像を作ってほしい」という依頼だったのですが、話がトントン拍子に進んで、映画も併せて作ることになりました。
――ライブラリーの入り口近くには、村上さんがかつて経営していたジャズ喫茶のグランドピアノが置かれていて、映画にも登場しますね。
七里:新しい施設が旧4号館をリノベーションして作られると聞いたとき、「なぜ4号館なんだろう」と考えました。4号館といえば、学生運動が盛んだった1969年に、ジャズピアニスト山下洋輔の「伝説のライブ」が開かれた場所です。当時の4号館は、今とは別の場所にあったようですが、旧4号館にピアノを置くということは、春樹さん流の歴史を刻もうとしているのかもしれない、と思ったんです。
――開館前の記者会見で、村上さんは「伝説のライブ」について触れています。村上さん自身はライブを目撃していないそうですが、「民青とか革マルとか、仲の良くないセクトどうしが一つの場所に集まって、呉越同舟で山下さんの演奏に聞き入った。そういう建物をまるごと使わせていただくのは、非常に興味深い巡り合わせだと思う」と話しています。
七里:あの時代に学生だった者として、春樹さんにも傷心とか挫折があったのではないでしょうか。その傷みたいなものが、従来の早稲田文学とは全く違う世界というか、洗練された文体に逆に現れているのではないか、と思います。
――七里さん自身は、村上さんの作品とどんな接点があったのでしょうか。
七里:『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』という初期三部作と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』あたりを中高生ぐらいに読みました。文学のたしなみというか、そのころに触れた文化的なものの中に春樹さんもいたという感じです。
――どんな存在だったのでしょう。
七里:1980年代から2000年代にかけて、あらゆるストーリーテリングは多かれ少なかれ、春樹さんの影響を受けていたような気がしますね。文学だけでなく、アニメーションも含めて。それぐらい、我々の深層に埋め込まれている作家だと思います。
清潔になって「慶応化」していく早稲田大学
――村上さんも七里さんも早稲田大学の出身ですね。今の早稲田の学生にとっても「村上春樹」は身近な存在なのでしょうか。
七里:その点については、映画を作るにあたって、早稲田の学生に少しリサーチしてみました。そうしたら、驚くほど誰も読んでいなかったんです。
――それは意外です。1980年代〜90年代には『ノルウェイの森』ブームがあって、大学生の大半が村上春樹を読んでいる印象でしたが、時代の変化を感じます。早稲田大学のキャンパスも、昔に比べるとずいぶん綺麗になりましたね。
七里:昭和時代の最後に学生生活を送った人間からすると、こんなにも「あの早稲田」ではなくなったんだという印象です。昔は早稲田というと、僕のような貧乏学生が多かったのですが、2000年代初頭の学生自治会をめぐる闘争を経て、立て看文化が一掃されて、クリーンな早稲田に変身しました。
――早稲田が「慶応化」したということでしょうか。
七里:実際の慶応大学とは全然違いますが、早稲田側からすると「慶応化」したともいえるでしょうね。どんどん清潔になって、今の時代に合わせて漂白されていく早稲田。でも、その奥にある歴史みたいなものを覆い隠してはいけない、断絶させてはいけないのではないか、という問題意識がありました。
――その問題意識が、映画の中では、学生運動を思わせる「音」としてうっすらと表現されているわけですね。
七里:そういう「過去」があって今があるということを少し滑り込ませておいたほうがいいのではないか、と。
村上春樹ライブラリーという「場」をどう読むか
――この『ピアニストを待ちながら』という映画の特徴は、隈研吾さんが設計した村上春樹ライブラリーで、全編が撮影されていることですね。
七里:ここを舞台にした作品ということは決まっていたので、この「場」の意味をどう読み込むか、頭を悩ませました。隈研吾さんが「村上文学の世界」を表現した空間を借景として、映画という表現にどう落とし込むか。そんな課題に、スタッフとキャストのみんなで取り組みました。
――映画の着想の起点としてはもう一つ、村上さんの短編小説『図書館奇譚』があったそうですね。これは、主人公が図書館の地下にある部屋に閉じ込められてしまう物語ですが、その点は映画と似ていると感じました。
七里:ただ、映画は「閉じ込められた物語」にはしたくなかったんです。建物の自動ドアはいつでも開くのに、登場人物たちはなぜか「出ていけない」。ガラス張りの向こうには外の世界が見えているのに「出ていかない」。その意味で、脱出不能の物語ではありません。そこは、もしかしたら『図書館奇譚』と違うところかもしれません。
「わからないもの」を観て、感じることの大切さ
――この映画が撮影されたのが2022年ということで、「コロナ禍」という社会状況も反映されていると聞きました。
七里:頭にあったのは、ポストコロナですね。映画を作っているとき、「その後」はどうなるんだろうと考えていました。
――映画の主人公は、大学を卒業してまもない若者です。コロナ禍は、若い人たちにとって辛い時期だったと思いますか。
七里:どうだったんですかね。演劇をやっている若い人たちにも話を聞きましたが、演劇の本質的な要素として「人が集まらないとできない」という点がありますよね。大学も似た面がありますが、コロナで「人が集まること」を禁止された。それによって、人が集まる「場」のあり方が根本的に変わっていくんだろうなと感じました。
――この映画をどんな人に観てほしいですか。
七里:できれば、若い人に観てもらいたい。僕が若かったころ、どう観たらいいのか「わからないもの」を観て、何かを感じることが大切でした。今の若い人は、どう観たらいいのかが決まっている「わかりやすいもの」を与えられ、それを観ていることが多いと感じます。
――その点では、この『ピアニストを待ちながら』は俳優たちも口にしていたように、どう観たらいいのか「わからない映画」ですね。
七里:「わからない」ということが、いかに大事なことか。そのことを、若い人に知ってほしい。わからないことだらけなんですよ、この世の中は。いつからなんですかね、「わかりやすさ」ばかりが求められるようになったのは?
映画『ピアニストを待ちながら』は10月12日から、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで公開され、順次、全国の映画館で上映される。