樋口尚文の千夜千本 第96夜「散歩する侵略者」(黒沢清監督)
侵略者は「杉村春子」の夢を見たか?
たまらない面白さに満ちた『散歩する侵略者』は、いつものようにそこかしこに黒沢清的な映画の「気」が充満している。これはビデオショップ的な強引なジャンル分けをすればSF、それも『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』や『ウルトラセブン』〈狙われた街〉のような侵略SF物なのだが、そういういわゆるSF映画的な展開は長谷川博己扮するジャーナリストが担う副線に委ねられ、長澤まさみと松田龍平の夫婦を描く主線だけを見ているとほぼホームドラマのようであり、物語次元で語ればこの映画は若い夫婦が愛とは何かを探る彷徨のドラマということになるだろう。この「いったいわれわれは何の映画を観ているのだろう?」という感覚は、黒沢清作品を観ることの最上の愉しみであるわけだが、その感覚への手招きとして、黒沢清は映画の随所に独自の「気」をたちこめさせる。
その「気」とは何かをもう少しかみ砕いて言うなら、いわばホラー映画をホームドラマのように撮り、ホラー映画をホームドラマのように撮ることで醸される映画の「暫定感」である。つまり、あるシークエンスを見ながら、これはたぶんホームドラマであろうが、ホラーである可能性も大いに否めない…と思わせること。それを醸すための「映像」から「演技」に至るすべての要素を調合して、何やら不穏かつ不定形な「けはい」を与えることにおいて、黒沢清は圧倒的な手腕を見せてきた。傑作『トウキョウソナタ』はホームドラマなのに『回路』や『叫』と地続きのようなホラーじみた画面の「けはい」が湧き出ていて、その「暫定感」が映画にスリリングな豊かさを召喚していた。
だが、前作『クリーピー 偽りの隣人』でいくぶんその「暫定感」がマイルドになって、黒沢清が真っ向からサスペンスというジャンルに取り組んでいるように見えたのに続いて、『散歩する侵略者』もかなり侵略SF物にストレートにぶつかって行っている印象だ。これにはたとえば『CURE』あたりの息苦しいくらい尖鋭な黒沢タッチを期待する黒沢映画フリークは若干とまどうかもしれないが、私はこれまで泰然として身じろぎもしなかった黒沢タッチの「変節」を感じて、むしろ今後の黒沢作品の行方が愉しみになった。その点を黒沢監督に問うと、「実はSFというジャンルそのものが、実にさまざまなパターンに変形してあまたの映画を生み出していて、場合によってはSFとうたわない作品がごくSF的な試みをやっていることもあって、要はSFというジャンル自体が何でもありなのだということが判ったんです」ということだった。つまり、SFというジャンルをラディカルに掘っていけば自ずと「暫定感」は生まれる、ということか。それはまた腑に落ちる回答であった。
ところで、本作を観るうえでの大いなる愉しみは、初めて黒沢清と組む長澤まさみの魅力だろう。私は『クロスファイア』でデビューして以来全部の映画作品から『ライクドロシー』『キャバレー』などの舞台も観ているが、とにかくどの断面をとっても別人のように多彩で、逆にいえば特定の目覚ましいカラーを感じさせない貴重な才能である。インベーダーが人間の「概念」を奪うという本作に事寄せて言えば、長澤まさみは「概念」がぽっかり空洞になっていて、そのくせ方向性を持たないエネルギーが渦巻いているようだ。そのエネルギーは作品と演出家の求める方向さえ感知すれば、本作の侵略の火球のごとくに一気にあらゆる方角へでも劇的に移動することだろう(あれだけ溌剌とした笑顔を見せる長澤まさみのことを時々「虚無的」と表現する文章を見かけるが、それがまたこの資質を裏付けている)。実は黒沢清の作品に最も絶妙に溶け込んできた女優は、みんなどこか「概念」なきエネルギーの塊ようであって、『贖罪』の小泉今日子、『Seventh Code』の前田敦子はその典型だった(この二人は本作でもごく短い出演ながら鮮やかだ)。その系譜に連なる長澤まさみは、全篇仏頂面でまるで地震計の針が微細に振れるような、デリケートな演技を見せるのだが、半年前に観た『キャバレー』のド派手な笑顔を思い起こすにつけ、長澤本人からすでに蠱惑的な「暫定感」が漂ってくるのである。
そういう意味で黒沢演出の「気」と長澤まさみの存在自体が放つ「気」ははからずも(「概念」がなくて名状しがたいエネルギーが充満している点において)驚嘆すべきシンクロ率を見せているのだが、その最も息の(波長の、というべきか)合った快心の場面は、終盤夫への愛を完遂せんと一緒に逃亡を決め込んだ長澤が、松田龍平の隣で「(こんなに気をもんでも侵略のリミットが変わらないのなら)やんなっちゃうなあ、もう!」と独り言ちるところだ。ここはなんだか侵略SF物に成瀬巳喜男『晩菊』『流れる』みたいな世界が流入してきたみたいで、黒沢映画一流のノンジャンルな魅力に感電したのだが、長澤まさみともどもここがとてもお気に入りという黒沢監督にどういう指示を出したのかと尋ねた。すると、なんと(ごく異例のことなんですが、と前置きしたうえで)シナリオの台詞のところに「杉村春子ふうに」と註釈を付けてあったのだそうだ。「杉村春子ふうに」!…だとすれば、あれは正真正銘『晩菊』『流れる』風味の「やんなっちゃうなあ、もう!」だったのか。なんたる自由過ぎることの痛快。さしずめこの作品自体が、われわれのなかでずいぶん不自由に矮小化された「映画」という「概念」を奪い取ることによって、白地の豊かなる解放感に導く「侵略者」なのであった。