「店が全焼しました」。火災ですべてを失った店主が再起をかける京都の「洋食がおいしいレストラン」
「静岡でやっていた店が全焼して、仕事を失いました。『ベトナムで店をやらないか』と救いの手を差し伸べてくれた友人がいて、開店の準備をしていたのですが、予期せぬコロナ禍で計画がダメになってしまって。それで、故郷である京都で人生をやり直そうと考えたんです」
「キッチンぼーちゃん」店主、西浦貴也さん(56)は、そう語ります。
安くてボリュームがある洋食メインのレストラン
叡山電鉄の無人駅「元田中」。周囲は静かな住宅地。「キッチンぼーちゃん」は2021年8月、元田中駅から徒歩わずかな距離にオープンしました。
「キッチンぼーちゃん」は鶏のから揚げや豚のしょうが焼きなどおいしい定食が安価でがっつりいただける、洋食メインのレストランです。京都大学や京都造形芸術大学の学生が多く下宿する元田中。開店して一年未満ながら、早くもお腹をすかせた若者たちの大事な拠りどころとなっています。
店が全焼。「ああ、燃えてるな」
西浦さんが京都に店を構えた理由、それは「火災」でした。
「静岡の御殿場で10年ほど『和食Dining兜(カブト)』をやっていました。その店が2019年12月に全焼したんです。自家用車2台も燃えてしまって、なにもかもを失いました」
『和食Dining兜(カブト)』は文字通りマグロの兜焼きをはじめ駿河湾の海の幸を存分に楽しめた人気店。また「究極の燻製ローストビーフ丼」は食べログ「静岡/ローストビーフ」部門で不動の1位に輝く名物メニューでした。
最大120名もの宴会に応えられる広々とした「兜」。西浦さんは店内での飲食のみならず近隣のスーパーマーケットにお弁当をおろす業務も請け負っていました。そんなある日。
「スーパーから『保健所が売り場のチェックをするから立ち会って』と連絡がありました。配達はいつもスタッフがやっていたのですが、売り場の責任者は僕なので、この日に限っては自分が行かざるをえない。そうしてスーパーにいるとき、店から電話がかかってきたんです。『あのー、あのー、あのー、フライヤーが燃えてるんです』と」
慌てていてさっぱり要領を得ないスタッフからの電話。急いで消防署へ連絡し、配達車で消防車に後続しながら店へと向かいます。
「ハンドルを握っていると、1キロメートルほど先に、見たことがない大きさの真っ黒いキノコ雲が立ちのぼっていたんです。『戦争があったんか?』っていうくらい。『まさか、あれやないやろな』。駆けつけたら、そのまさかでした」
ビーフのように目の前でこんがりと燻され、ローストされてゆく、我が店。
原因はスタッフが掃除している際に飛び散った塵(ちり)への引火でした。
「ああ、燃えてるな。しゃあないな」
しばし呆然とし、目撃の瞬間は「なんの感情も湧かなかった」という西浦さん。しかし、はたと気がつきます。「予約台帳も燃えている」と。
「12月だったので宴会やクリスマスコースの予約がたくさん入っていたんです。60名を超える大掛かりな忘年会や、遠く名古屋からお越しくださる方もいました。『この火事、どうやって知らせよう』。とりあえず、燃えてる様子をスマホで撮って、Instagramにアップしたんです」
店主自ら撮影した「うちの店の火事」。現代版のノロシというか、炎の画像で予約客に惨状を伝えました。このインパクトは強烈で、予約客のみならず、たちまち静岡中にウワサが駆け巡ったのです。
「鎮火したあとスタッフを集め、『みんな、明日から仕事ないわ。ごめんな』と謝りました。けれども誰もその場から離れず、寄り添ってくれた。店は燃えてしまったけれど、みんなこの店を愛してくれてたんやとわかって、ちょっと嬉しかったです」
車が謎の故障で廃車に。「神様は車まで奪うんか」
ただ、それからがたいへん。スタッフへの給料の調達。警察や消防署による「自店に放火した疑いがないか」の検証。大家との話し合い。地元消防団への陳謝。町内会への挨拶。火災保険。損害賠償。弁護士との相談。西浦さんは火の粉を振り払うようにおよそ1年、後始末に追われたのです。
「関係各所へ菓子折を持ってお詫びをしにいき、やっと処理が終わりました。最後に残ったのが、配達車一台。静岡にはもういられないし、これに乗って地元の京都へ帰ることにしたんです」
火災当日、スーパーマーケットへ出向くために、たまたま運転していた配達車。このたった一台が、西浦さんに残された財産でした。ところが――。
「京都へ向かう前に、用心のためにオイル交換をし、ファンベルトを取り換え、タイヤも点検しました。『これで大丈夫だろう』と高速道路に乗ったら、浜松あたりで停車してしまったんです。そうして原因不明なまま、廃車になりました。さすがに『神様は俺から車まで奪うんか』と、空を見上げましたね」
「おかん、俺、一年間だけヤンキーになるわ」
そもそも、西浦さんの人生は波乱に満ちています。代々続く西陣織職人の家に生まれた西浦さん。中学時代の担任が授業中に卑猥な発言を繰り返すのが耐えきれず、登校を拒否。母親に「おかん、俺、一年間だけヤンキーになるわ」と宣言し、予告通り期間限定で暴走族に入会。高校も「1日しか行かなかった」と言います。
「家は貧しかった」。西浦さんは往時を振り返ります。小学生の頃にオイルショックで景気が悪化。京都の伝統工芸界全体が危機にありました。追い討ちをかけるように、アルバイトまでして家計を支えた西陣織の職人の父親が目を悪くし、機織りが継続不可能に。「何かしないと食べていけない」。西浦さんは16歳にして働く決意をし、小中学校の教材を訪問販売する会社の営業マンになるのです。
「暴走族に入っていたから、バイクの免許を持っていたんです。バイクに乗って教材を売りまくりました。ワンセットがローンで約40万円。ちょっとぼったくり気味の価格でしたが、口が達者やったので、売りに売りました。すると、営業成績が全国1位になってしまったんです」
未成年でありながら営業成績は断トツ。16歳で、なんと主任に昇格。
「このとき、人生最大の失敗をしました。世の中をナメるようになってしまったんです」
教材販売は固定給+歩合給。16歳にして一か月250万円以上という途方もない収入を得た西浦さん。海千山千な大人たちが、その大金に目をつけないはずがありません。「一緒に会社を興さないか」と甘い言葉で退職させ、資金を西浦さんに出させたまま会社を乗っ取ったのです。
「悔しかった。『なるほどな。大人って汚いんやな。よしわかった。だったら、やり返さんとあかんな』。そう誓いました」
バブル時代に27店舗を経営。バブル崩壊で借金が17億円に
大人たちへの復讐心に燃える西浦さん。お酒が飲める年齢ではないため、ホストクラブにウエイターとして入店。幼い頃に習った社交ダンスの技術で、お店に来るマダムたちのハートに火をつけていきました。
「お客さんはお金持ちばっかり。『あんたをナンバーワンにしてあげる』。そう言って、高額なブランデーのボトルをばんばん入れてくれました」
そうして西浦さんは十代にして店のナンバーワンに。ここで得た給料を資金にしてスナックを開業。ところが入居したビルが老朽化のため立ち退きを迫られ、西浦さんは労せず立ち退き料を手にする運びとなりました。
報復に燃える青年に神は味方をしたのでしょう。好機はどんどん転がり込みます。「これからはショーパブの時代がくる」との情報を耳にした彼は、立ち退き料を元手に祇園に「ジャニーズと宝塚を合わせたような店」をオープン。店長である自らがダンサーとして舞台に上がり、見よう見まねで必死に歌って踊りました。これが大当たりしたのです。
「それから京都で27店舗やりましたね。ガールズバーのはしりと言える店をやったときにはミック・ジャガーが遊びに来ていました」
時代はまさにバブル全盛期。クラブ、キャバクラ、雀荘、居酒屋、プールバーなどなど次々と成功をおさめ、西浦さんは京都の盛り場を彩る若きイケイケ実業家として台頭。まさにサティスファクションな日々を謳歌したのです。
「絵が得意だったので、F1レースの企業ロゴをつくる仕事もやっていました。レースクイーンの衣装、ステッカー、うちわ、そういうノベルティをまとめて引き受けて4000万円もらう。そんな金額が当たり前の時代でした。レーシングカーに興味はなかったけれど、レースクイーンに会いたい一心でやっていましたね(笑)」
ところが……バブルは崩壊。一軒ずつ店を閉め、最後の店を閉店したときには借金が17億円にまで膨れ上がっていたのだそうです。
「すっからかんになり、ある日スーパーマーケットに入ってぼんやりしていました。すると、キムチの試食販売をしていたんです。『2400円です』『3200円です』。けっこうな値段なのに飛ぶように売れている。『おもろそうやな』。そうして、イベント販売の道へ進みました」
ベトナム移住計画がコロナ禍で頓挫
人を楽しませるのが好きだった西浦さん。試食販売に再び人生を賭けます。キムチや佐世保バーガーを販売するイベンターとして全国を駆け巡り、企画した痛車のイベントでは5万人を動員。行政から表彰までされるほどに。またまた逆境に打ち克ったのです。
「その流れで御殿場でイベント販売をやって、売り上げを地主さんに渡したら驚かれましてね。『こんなすごい金額、見たことない。ここでお店をやってもらえませんか』と。それがのちに火災に遭った『和食 Dining 兜』だったんです」
そう、御殿場に開いた店は、バブルに翻弄され、全国を旅した西浦さんがやっと羽を休ませられる安住の地でした。それから10年間、穏やかな日々が続いたのです。
それなのに、神のシフトが変わったのでしょうか。西浦さんの運命のアップダウンは、まだまだ終わりではありませんでした。火災で店を失った西浦さんに、一艘の助け舟がやってきました。それが「ベトナム移住」。
「友人が『ベトナムで一緒にレストランやらへんか』と誘ってくれたんです。この年ではもうサラリーマンはでけへん。娘は二十歳を超えたし、息子には子どもができた。孫の顔も見られたし、日本に執着する理由はない。娘に『ベトナムに骨を埋めてもええか。最後にもう一花、咲かせたいねん』と訊いたんです。すると、『ええよ』と言ってくれて。それで、海を渡る決意を固めました」
旅券やビザを取得し、仮住まいだった部屋も解約。さあベトナムへ!
……ところが、このタイミングで巻き起こったのが、地球規模の新型コロナウイルス禍。海外への行き来は許されず、同じく「コロナのために台湾から帰国できなくなった友人宅」に身を寄せるしかない状況に陥りました。
京都で開業した店で「人生やりなおし」
好調な時にはピンチが訪れるけれども、ピンチになると必ず救いの手が差し伸べられる。それが西浦さんの人徳なのでしょう。店の火災、ベトナム移住の頓挫と何度も痛い目に遭った西浦さんに、先輩から、こんな救済案が寄せられました。
先輩「せっかく店を借りたのに、店長をやる予定だった子がおらんようになってしまって。困ってるねん。代わりに店をやってくれへんか。好きなようにしてええから」
その店こそが、現在の「キッチンぼーちゃん」。ベトナムへ渡れない以上、先輩であるオーナーからの提案はありがたかった。
店はほぼ手づくり。ガラスの瓶を切って照明器具にするなど設備費を極力抑え、こうして街場の名店が新たに誕生したのです。
『和食Dining兜(カブト)』で大人気だったローストビーフ丼も、ぼーちゃんに引き継がれています。
「ずっとここで店をやるか、ですか。どうかな。人生は何が起きるかわからないですしね」
ずっとそこにあり続けるお店は素敵です。けれども店主さんがふらりとベトナムへ渡ってしまうかもしれない、そんな風まかせなお店もまた魅力的。名物のローストビーフ丼には、人間味という隠し味がある気がしました。
キッチンぼーちゃん
所在地:京都府京都市左京区田中野神町6−12
ランチ:11:30~14:00
ディナー:17:30~22:00
定休日:月
電話: 075-888-8177