藤原道長、藤原彰子、敦成親王らを呪詛し、再び窮地に陥った藤原伊周
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、藤原伊周が藤原道長、藤原彰子、敦成親王らを呪詛し、再び窮地に陥った場面だった。この点について、詳しく取り上げることにしよう。
長徳の変で伊周は弟の隆家ともども失脚し、左遷された。その後、伊周は帰京を許されたが、往時の威勢を取り戻すことはできず、おじの道長の後塵を拝することになったのである。いかに事件を起こしたとはいえ、伊周にとっては不本意だった。
伊周にとっては、妹の定子(一条天皇の中宮)が産んだ敦康親王だけが唯一の頼りだった。将来的に敦康親王が天皇になることができれば、伊周が再び表舞台に返り咲く可能性があったからである。伊周は、この可能性に賭けるしかなかった。
しかし、彰子(道長の娘で一条天皇の中宮)が敦成親王を産むと、流れはすっかり変わってしまった。仮に敦成親王が皇太子となり、将来、天皇になれば、伊周の復権の可能性が限りなくゼロになるからだ。このことは、伊周にとって悩みの種だった。
寛弘6年(1009)1月、ついに大事件が勃発した。高階光子(伊周の母・貴子の妹)が中心となり、藤原道長、藤原彰子、敦成親王らを呪詛したことが露見し、その首謀者が伊周だと疑われたのである。伊周は、再び窮地に陥った。
事件は、光子と源方理(伊周の義兄弟)が主導した。2人は僧円能に厭符(まじないのお札。この場合は呪いの札)の製作を依頼し、道長、彰子、敦成親王を呪詛したといわれている。円能は、方理の父・為文に仕えていたという。
いかに伊周が定子の兄とはいえ、一条天皇は長徳の変のときのように、厳罰を科さざるを得ず、内裏への出入りを禁止したのである。この決断は、一条天皇に強い精神的なダメージを与え、しばらく寝込むような状況になったといわれている。
事件後、光子は獄舎に入れられ、方理は官位を剥奪された。しかし、伊周は同年6月に許されたのである(方理ものちに許され復位した)。とはいえ、伊周の体は深刻な病に蝕まれており、翌年1月に亡くなったのである。