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西武・武内夏暉が開幕3連勝。上には上がいて、開幕13連勝の高卒ルーキーはだれ? ①

楊順行スポーツライター
(写真:アフロ)

 1966年4月14日。ある高卒ルーキーが、先発デビューを飾った。しかもなんと、そのプロ第1球がバックネットへの大暴投——。

「ただし、ウォーミングアップね。その第1球を、わざとバックネットに投げたんだよ。リラックスするためにね。前日に先発をいわれて、そりゃあ緊張したもん。背中を汗が伝わっていくのがわかるんだ。あれだけ緊張したのは、引退したあと、天皇陛下の前で解説させていただいたときくらいだね。森(昌彦・当時)さんのミットどころか、姿さえ見えない。相手に打たれることより、とにかくストライクが入るかどうか、そればかりが気になった。実際ウォーミングアップでさえストライクが1球も入らなかったからね」

 そう話すのは,巨人ひとすじで通算203勝。のち監督も務めた堀内恒夫さんである。

「なにしろサードは長嶋(茂雄)さんでしょ、ファーストは王(貞治)さん、ショートは広岡(達朗)さん……。とにかくすごい内野ですよ。ストライク入んなきゃ、なにいわれるかわかんない。自分でもいったいどうなるかと思ったんだから、ベンチはもっとだっただろうね。で、相手の一番バッターは中(暁生)さん。バッターボックスで伸び縮みするフォームで投げにくいしさ……。それが“ええい、いったれ!”とストレートを投げてみたら、ど真ん中のストライク。あれでホッとしたね」

 堀内さんがいうには、これ以上ない幸運なスタートだった。ジャイアンツはその日の天気予報が雨であることにすがって、前日の中日戦で本来の先発予定投手を使ってしまっていた。ところが案に相違して、試合は開催。ローテーションの谷間で、堀内さんに初登板・初先発の機会が巡ってきたことがまずひとつ。そして1対2とリードされた7回表、堀内さんの代打・柳田利夫が逆転打を放ったのがふたつめ。6回を投げ2失点の堀内さんは、負け投手を免れたばかりか、チームがそのまま勝って勝利投手になる。ここから、新人記録の開幕13連勝が始まるのだから、確かにこれ以上ないスタートだ。

 今季ここまで、西武のルーキー・武内夏暉が開幕から無傷の3連勝を飾っている。なんでも、5試合連続のクオリティースタートは、松坂大輔を抜いて、新人としては球団新記録らしい。まあもともと、武内は国学院大時代から評判が高かった。ところが堀内さんは、山梨・甲府商を出たばかりの高卒ルーキー。時代が違うとはいえ、ケタも違う。当時の話を、堀内さんに聞いたことがある。

わざと大きめの帽子をかぶって……

 初勝利の翌日。どの新聞にも、帽子を横っちょに曲げて力投する18歳の写真が躍った。以来横向きの帽子は堀内さんのトレードマークになるが、実はこれ、わざと1サイズ大きめの帽子をかぶり、投げ終わったあとずれやすいように演出していたのだ。

「プロになった以上、自分のキャラクターをアピールしなきゃいかん、と。フィニッシュで首を振って帽子がずれると、いかにも力投してるって感じになるんじゃないかと思ってね。ただでさえノーコンでボールがどこいくかわかんねえのに、帽子を飛ばすくらい力投すれば相手打者の腰も引けるだろうし。もちろん川上(哲治・当時監督)さんには、そんなこと内緒だよ。わざと大きい帽子をかぶります、なんていったら、どうなることやら……。

 バックネットへの暴投も、大きな帽子も、高校(甲府商)時代の監督(菅沼八十八郎氏・故人)のアイデアなんだ。“どうせ緊張するだろうから、1球バックネットにいってみろ”とか“帽子を飛ばして相手打者をびびらせろ”とかね。菅沼さんは、オレの野球を形成してくれた恩人ですよ」

 菅沼は高校時代、堀内さんを一目見ただけで、「こいつのピッチングを全国の野球ファンに見てもらいたい」とその才能を一目で見抜いた。めっぽう速いまっすぐと、カーブの落差。投げるだけじゃなくバッティングのセンス、守備、そして鼻っ柱の強さ……。すべてに高校生離れしていた。1年のときすでに、外野手兼投手として、63年夏の全国大会に出場(ただしこの年は記念大会で、甲府商は併用された西宮球場での試合ばかりだったため、高校3年間は結局、甲子園とは縁がなかった)。そして記念すべき第1回ドラフト会議で巨人が1位指名。菅沼の思惑どおり、全国のファンにその姿を見せつけることになる。

「プロに入り、キャンプ前はそりゃおそるおそるだった。どんなレベルか知らないんだもの。高校1年のときの全国大会でさえ“上には上がいるなぁ”と思ったくらいだったから、プロのレベルなんて想像がつかないよ。高卒ルーキーのキャンプは、無条件に二軍からのスタートなんだけど、まず驚いたのは練習の長さ。朝10時から夕方の5時まで、そのあと食事してミーティングしてまた練習。もともと練習嫌いだし、とにかく走る量がハンパじゃなかった。当時二軍のキャンプは、宮崎の延岡でやっていたんだけど、球場に隣接して陸上競技場を造成中でね。その盛り土の上を走らされる。100メートルを50本くらいかな。もう、クロスカントリーなみですよ。体がもたないなという感じだった。

 ただブルペンでピッチングして、“こりゃ大丈夫だ”と自信を持ったね。さすがにみんなタマは速いけど、オレのほうがもっと速い。ピッチャーって、並んで投げていると自分の力がわかるんですよ。で、(高橋)一三さん、倉田(誠)さん、渡辺(秀武)さん……一軍予備軍といわれている人たちと比べたら、悪いけどオレのほうが早く上に上がれるな、と。オレは当時、1日おきにピッチャーと内野とを並行して練習していたんだけど、それでもブルペンじゃオレが一番だと思ったね」

 この自信。しかも、新人らしい謙虚さのかけらもなく、思ったことをずけずけ口に出すものだから、「堀内は生意気だ」と反感も買った。なにしろ内心「もしピッチャーとして通じなくても、野手としてやっていけるだろう」と考えていたのだから。だけど、のちに400勝する大投手・金田正一は、鼻っ柱の強さにピッチャーとしての才能を感じ取り、かわいがっている。さしもの堀内さんでさえ緊張したという初登板の試合前。取り囲む報道陣に“みんな、今日はこの子が先発なんだから、そっとしといてやってくれや”。天才的で生意気なルーキーに、かつての自分を見たのかもしれない。(つづく)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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