テストマッチ丸出しの試合に意味があるのか?
5月30日に行われたキリンチャレンジカップ2013、日本代表対ブルガリア代表の試合は0-2でホームの日本代表が敗れた。
前半に試みた『3-4-3システム』は悪くなかった。攻撃が中央に偏りすぎた印象はあるが、守備は思い切ってトライしている様子が伺えた。
運動量が増えたディフェンス陣の疲労の色を見ると、「これで90分間もつのか?」、「疲れている後半途中からの切り札になり得るのか?」という不安は残るものの、少なくともオプションとしては計算できるレベルになりつつある。
セットプレーも、言われているほど悪いとは僕は思わない。システム上、普段よりも1人多く長身選手を起用できたこともあり、カナダ戦、ヨルダン戦の失点に比べると意図的な修正の跡があった。今回のセットプレーの失点は、相手を褒めなければならない部分も大きく、逆に日本もセットプレーからチャンスを作った。だから、あまり気にしすぎてもしょうがない。僕は忘れることにした。
それより、もっともっと、もっと気になることがある。
この『テストマッチ丸出し』の雰囲気はどうにかならないものか?
ザッケローニ監督はこの試合の目的を、コンディションのチェック、3-4-3システムを試すこと、と前日記者会見で述べた。明確な目標設定であり、6月の連戦を考えた上でも妥当な内容だろう。
しかし、それを公言することに意味はあるのだろうか?
たとえ真の目的が上記の2つだったとしても、記者会見では「試合の目的は勝つことだけ。ワールドカップ欧州予選2位のブルガリアを倒し、日本の強さを証明する。良くないプレーをした選手のポジションには、どんどん新しい選手を招集する。代表は常に競争だ」というくらいのことを言ってほしい。たとえ本心ではなくても。
システムを試しても、選手を試しても、『テストマッチ丸出し』の試合で成功したことが、真剣勝負でも同じように通用するのだろうか? 僕は疑問に残る。
もしかすると、このような意識の違いは、僕が日本人で、ザッケローニ監督がイタリア人だから生まれるのかもしれない。
僕の友人はイタリアで、アマチュアのサッカー選手としてプレーしていた。彼はこんなことを言う。「普段の練習のときのイタリア人と、本番の公式戦のイタリア人は全く別物ですよ。あれ、こんなにうまかったっけ? こんなに強かったっけ? と、いつも思わされる」
要するに、彼らはピッチの内外でオンとオフの切り替えが利いているのだ。真面目に練習なんかやりたくないし、試合で結果を出せればそれがいちばんいい。唯一、最大の目標なのだから。だからこそ、ここ一番にかける彼らの集中力やテンションの高さは、僕ら日本人の想像を絶するものがある。
そう考えると『テストマッチ丸出し』でも、イタリア人を指導するぶんには構わないのかもしれない。もともと本番になると、がらりと変わる性格なのだから。
しかし、日本人に対してはどうだろうか? 生真面目な性格ゆえに、力点が散漫になることもある。本来はそれほど重要ではない雑務をこなしているうちに、本当に必要な仕事がおざなりになり、無駄な残業を繰り返す。あるいは上司からの不要な指令に対して意見が言えず、不満はあるけれど、口には出さずにやはり残業三昧。その結果、ガツッと必要なことだけに集中すれば4時間で終わることに、ダラダラと8時間かけてしまったりする。
指揮官は日本代表がパフォーマンスを上げるためのキーワードとして『インテンシティー』(強烈さ、強度)を挙げた。それを達成するためには、高い集中力が必要だと言う。そのとおりだろう。しかし、ブルガリア戦ではそれが見られなかった。むしろ相手チームのほうが高かったように思う。
僕はインテンシティーの高まりを妨げている要因は、指揮官の言葉にもあるのではないだろうかと思う。
一つ例を挙げると、柏レイソルのネルシーニョ監督は、『ヴィトーリア』(勝利)をチームのスローガンに掲げ、どんな試合にも全力を尽くす。4月末に行われた柏のACL第6戦はアウェーのオーストラリアで行われたセントラル・コースト戦。すでにグループリーグ首位通過を決めていた柏にとっては消化試合だったが、すべての試合にヴィトーリアを掲げるネルシーニョ監督は全力のメンバーをぶつけて3-0の勝利を収めた。
インテンシティーを高める方法を考えるなら、そういう発想も必要なのではないだろうか。いずれにせよ、『テストマッチ丸出し』の試合をいくら積み重ねても、本当の強化にはならないと思うのだ。