樋口尚文の千夜千本 第18夜「野火」(塚本晋也監督)
魂の震えが露出した地獄篇
ずいぶん前に塚本晋也監督が大岡昇平の「野火」に強い関心を示している時は、いったいなぜなのだろうと思ったのだが、時を経て塚本版『野火』が出来上がった今、なぜ監督がこの作品の映画化に執着したのかがわかり過ぎるほどわかる。塚本晋也は、カート・ヴォネガットにいわゆる坑道のカナリアみたいな人なのだろう。内覧試写で拝見してから東京フィルメックスでのワールドプレミアが済むまで情報発信が禁じられていたので、早く喧伝したい気持ちを封ずるのが大変だった。
それにしても塚本版『野火』は圧倒的だった。もちろん描かれているものの凄惨さゆえではあるのだが、それを追い越して全篇に「今、これを作らねば。これを伝えねば」という切実な作り手の意志が横溢・・・というより噴出しているからだ。『野火』と言えば当然ながら1959年の市川崑版と比較されるわけだが、あのいかなる凄絶な局面にも理性的な静謐さが貫かれた市川崑版に対して、塚本晋也はとにかく痩せ衰え汚れくさって眼球だけが妙にぎょろぎょろして獲物を探しているような鬼気迫る形相で自ら主演し(大変な力演)、同時に異様な緊張感で演出している。
そもそもこの映画の制作にはスポンサーがつかず、しかし世の中がおかしな方向に傾きつつある今この現在に作ることに意義ありと、塚本監督はもう独自で制作し、配給するほかないと撮影に踏みきったというが、そうだとすればどうしてこんな堂々たるスケールもある画が撮れたのだろうと不思議に思うことしばしばであった。そのくらい、細部の工夫に尋常ならざる執念の痕跡を感ずる。
市川崑版で船越英二が熱演した田村一等兵に扮した塚本監督は、その鬼気迫る肺病の兵士を完全になりきった構えで、前作で滝沢修が演じた安田を今回はリリー・フランキーが例によって粘着質のいやらしさに満ちた雰囲気で好演している。このほか伍長に扮した元ブランキー・ジェット・シティの中村達也も穿ったキャスティングだったし、前作ではミッキー・カーチスが扮して鮮烈な印象を残した若い兵隊・池松に抜擢された新人の森優作の無表情な怖さも忘れ難い。
目をおおわんばかりの敗走兵の過酷悲惨な日常と、それをのみこんで悠然とカラフルな景観を誇り続ける自然界の様子が対置されるのは塚本版の特徴で、この大自然のなかで意味のない殺し合いを演じ、果ては共食いにまで走る人間のナンセンスさを塚本監督は表現したかったようだ。安藤桃子監督『0.5ミリ』で津川雅彦が「戦争にはなんといったって根拠がありませんから」という台詞が急に蘇ってきた。本作を通して塚本監督が訴えたいものは、まさにそこに集約される。つまり、戦争とは無根拠に人がモノ扱いされ、人がケダモノになってしまう事態なのであるということが、これでもかというまがまがしい映像の連続で描かれる。
市川崑の『野火』ではカニバリズムを拒絶し、人とケダモノの境をぎりぎりの理性で線引きしてみせた田村は、人が普通の人間らしい暮らしをしているはずの野火のありかを目指して仏のように歩み出て銃弾に倒れる。戦時の記憶が国民の多くにまだ鮮やかであった時代、そんな美しい表現に託さなければこの主題は重すぎて観るにたえないものになったかもしれない。だが、世紀をまたいで戦争の記憶を継承する人々もいなくなり、やおら社会がきな臭くなってきている今、塚本晋也は逆に戦争の残酷さ、残虐さを真っ向から突きつけてくる。塚本監督がかねて露悪的に描いてきたグロテスクな、もしくはスプラッタ的なイメージが、本作ではその遊戯性抜きに正視が難しいほどの陰惨さで動員される。田村は生き残って、大岡昇平その人のような作家生活を営むことになるのだが、重度の心の傷を負って家人が目を疑うほどの挙動に走る。ここは塚本監督ならではの工夫の部分である。
ただ一点、当然細かな計算あってのこととは思うけれども、全篇のカットが極めて短くハイテンポであったためにどこかヘソとなる部分はどしっとしたショットがあったほうがよかったのでは、とも感じたのだが、このせわしない感じが、極限状況で感覚がいかれてきている田村の精神を映しているのかもしれない。いずれにしても本作はそんな細かいことはどうでもよくて、今の時代に警告を発さねばという気持ちに憑かれた塚本晋也その人の魂の震えがせっぱつまったかたちで露出した作品で、まさに塚本版『プライベート・ライアン』『シン・レッド・ライン』なのであった。