【その後の鎌倉殿の13人】後の鎌倉幕府4代将軍・三寅(藤原頼経)が可愛がった鷹の運命
元仁元年(1224)は、北条義時の死や伊賀氏の変など、大きな出来事が続きました。明けて、元仁2年(1225)は、どのような年となるのでしょうか。
お正月には、三寅(後の鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経)の「歯固めの儀」が行われたようです(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。歯固めの儀とは、平安時代頃から続く儀式であり、正月の三が日に硬い食物を食べて、歯を丈夫にし、健康長寿を願う行事のこと(1218年生まれの三寅は、未だ少年でした)。
「歯固めの儀」の後には、縁起を担いで、三寅の方違(かたたがえ。方角を違えること。陰陽道の説により、平安時代以降行なわれた風習)をしようということになりました。しかし、一体、どこに連れて行ったら良いのか?「内々」で議論されたようです。
ある人は、北条泰時の奥方のもとは、どうかと主張しましたが、泰時は父・北条義時を昨年亡くし、喪に服しているとして却下。こうなったら「二品」(二位。北条政子)のもとはどうかとの意見も出されましたが、これもなぜか退けられたようです(泰時と同じ理由かもしれません)。
最終的には、北条時房(政子や義時の弟)の「女房」(女官)のところに落ち着いたとのこと。
さて、2月24日、幕府御所の中門廊下に、小さな鷹が雀を捕まえて、飛び入ってきました。遠藤四郎という者が、この鷹を捕まえ、年少の三寅に献上します。三寅は、大層、これを可愛がったようです。三条親実、遠藤為俊は、野鳥が飛び入ってくることを「吉兆ですね」と言い喜んだそうですが、中原師員は「野鳥が部屋へ入ってくるのは、主人にとって良くないとの一文が文選(6世紀に成立した中国の詩文集)にございます。よって、避けるべきでしょう」と水を差します。
が、それに反論する者もいました。「野鳥とは人の持ち物ではありませんね。この鳥は、既に人が飼っております。ですから、何事もありませんよ」と言うのです(『吾妻鏡』)。
この鷹が、どうなったかは分かりませんが、問題ないとする意見が多いとして、三寅がその後も暫くは可愛がったのではないでしょうか。