津波の被災地で水と共生する「かわまちづくり」はどのように行われたか
甚大な津波被害を受けた石巻のこと
2011年3月11日に発災した東日本大震災で、宮城県石巻市は甚大な津波被害を受けました。まちの中心部でも広範囲にわたり浸水したほどです。
旧北上川は堤防のない一級河川でした。川面と同じ高さに住宅や商店がありました。
石巻の人々の暮らしは、もともと北上川とともにありました。
北上川は市内に入るといったん東に向かって流れ、再びに西に戻りつつ南下して海へ出ます。まちを包むような流れになっています。
江戸時代には河口部から江戸に向かって米が送られ「川湊」として栄えました。「港」ではなく「湊」。「港」は船着き場のことですが、「湊」は水のうえにある人やものが集まる場所のことです。
舟運によって人、もの、文化が行き来した石巻の暮らしは水とともにありました。そのため物理的な距離だけでなく、精神的な距離も近かったのです。
堤防は水と暮らしを隔てるもの
じつは堤防をつくる計画は、以前から何度かもちあがっていました。
震災前年の2010年5月にも、石巻市は北上川を憩いの場や観光資源などに利活用する「いしのまき水辺の緑のプロムナード計画」をつくっています。このなかに
「河口部の無堤防地域に津波・高潮対策を行なわなくてはならない」
と記されていました。
ですが、人々には「堤防があると川と隔てられてしまう」という気持ちがありました。
震災後、津波で自宅が全壊してしまった人のなかにも、堤防の建設に反対する人もいました。
その理由は「石巻の暮らしは北上川とともにあった」ということ。
加えて、「どんなに高い堤防をつくっても、それを越える規模の津波が来たら防ぎきれない。だから堤防よりも逃げることが大事」という声もありました。
ここで丹念な話し合いが行われました。
河川事務所は2012年1月から20町内会を対象に140回以上の説明会を開きました。
河川事務所は住民の意見を聞きました。住民も次に来るかもしれない津波について知りました。
住民はこれからの生活を考えると、堤防をつくらざるを得ないと考えました。そのうえで、どのような堤防がよいか、堤防の高さはどのくらいがいいのかという話し合いが続けられました。
堤防の完成は2022年3月末のこと。河口部の両岸計約15キロにわたって整備され、高さは海抜4.5~7.2メートル。2013年1月に着工し、9年かかって完成しました。
堤防の空間で水に親しむ
堤防というと「水を治める」(治水)ための技術と考えられますが、完成した堤防は「水に親しむ」(親水)ための機能をあわせもっていました。
計画時を振り返ると、津波で多くの人が犠牲になり、人々には水に対する恐怖や否定感がありました。「親水なんて必要ない」という声もありました。
それでも、人々の心のなかには「水とともに生きてきた」という想いもありました。
考えてみると、水は洪水、高潮、津波などの脅威をもたらす一方、生活用水、農業用水、工業用水、魚介類などの恵みをもたらし、癒しの場ともなります。
では、「水とともに生きる」はどうしたら実現できるのでしょうか。
石巻では、学識経験者、行政職員、市民による話し合いが何度も何度も行われました。
あらためて川をまちづくりの中心に据えることに決め、川の右岸、左岸の6地区ごとにワークショップを開き、「憩い」「集い」「歴史」「学び」など、それぞれの特色にあわせたアイデアを事業に反映させました。
完成した堤防は、川とまちを分断するのではなく、つなぐ役割をもっています。
堤防のうえに広い空間がつくられ、そこをジョギングしたり、散歩したり。
カフェや交流施設があり、休日にはキッチンカーが集まります。
食堂では新鮮な魚の幸をつかったメニューが提供され、食事をしながら川を見ることができます。
さらに、大規模な堤防をつくっても、それを乗り越える津波が来ないとは限りません。そのときには自助、共助の精神をもちながら避難することが大切です。ワークショップなどで、ていねいな話し合いを経験したことで培った「川への関心」がそのときに活きてくるでしょう。
近年は日本各地で豪雨災害なども頻発しています。
水を身近に感じながら、水の脅威と恵みの両面とともに暮らすにはどうしたらいいか。それを考えることが、まちづくりに必要ということでしょう。