戦後最悪の学校災害 大川小津波被災のドキュメンタリー映画が触れた事後対応の加害性と分断とは
今年の3.11で、東日本大震災から12年になる。
あの日の大津波は、宮城県石巻市立大川小学校に待機していた児童74人、教職員10人の命も奪った。雪が舞う寒空の下、校庭で約50分もの間待機した後、どこかに向かって移動し始めた矢先だった。
この戦後最悪の学校災害を改めて振り返る映画『「生きる」 大川小学校 津波裁判を闘った人たち』が18日から各地で順次、劇場公開される。
■ 遺族が記録し続けた行動、本当の意味は何か
手がけたのは、テレビ制作で多くの実績がある寺田和弘監督だ。この作品が初の長編ドキュメンタリー映画となる。寺田監督はテレビマンだが、大川小を巡る話題を追いかけてきたわけではなかった。私の記憶でも、保護者説明会、検証委員会、提訴と展開した、遺族が学校や教育行政側と濃密に対峙した経緯に、監督が立ち会っているのを見かけたことはない。
監督に初めて会って「映画を作る」と聞いたのは、大川小の津波裁判の判決が確定した報告集会の日だった。裁判が終わったタイミング。そんな「今さら」登場した監督の制作をドキュメンタリーとして成立させたのは、遺族たちがひたすら撮影していた膨大な映像素材だった。
3.11の頃はまだ、スマホがそれほど普及していない時代だ。ガラケーで写メは撮っても、今のように誰もがやたらと動画に残す習慣はなかった。そんな時代に、遺族はどの会場でも、どの現場でも、遺族はわざわざ三脚を構え、ホームビデオのカメラを据えた。この映画がまず問いかけるのは、親がビデオ撮影するのはどんな時か、こうした流通を前提としない映像が存在する本当の意味である。
親たちは、子を亡くしただけでなく、身内や資産や地域を失った被災者でもあった。そこへさらに二次被害とも言える教育行政側からの事後対応や世間からのバッシングに翻弄された。嵐の中にいた当事者が残した記録を、当時の混乱や感情を共有していなかった作り手が全て引き受け、咀嚼し、大川小児童遺族が津波裁判に至った道程をたどりやすく仕上げた。
映画は、事件のファクトや速報性に重きを置かれるニュースでは触れにくい、大川小の津波被災から始まった「分断」にも触れた。裁判で原告代理人を務めた2人の弁護士が遺族たちの姿を語るとき、組織による矮小化や社会の無理解による暴力性は、どんな人にも地続きの問題なのだと気づかされる。大川小の、なおも解消されない居心地の悪い問いを監督は引き出し、観る人に委ねた。
■ 最初は映画を観たくなかったわけ
ここでいきなり私の胸中を述べるのは申し訳ないが、実は正直なところ、この映画を最初は観たくなかった。ずっと取材を続けてきた大川小に関することだから行かねばと思いつつ、どんよりとした気持ちが試写に出向く足を妨げた。
意を決して2度目の誘いで映画を観た時、この重たさの正体がわかった。遺族たちの悲しみと怒りと、徒労感がないまぜになったあの日々を、もう一度甦らせなくてはならないことへの抵抗感だと気がついたのだ。
それほど、遺族が味わっていた事後対応の加害性は凄まじかった。
発災当初、現場にいた教職員の中で唯一の生存者となった教務主任が話した「目撃」内容は、矛盾が多かった。親たちの中に真相究明を求める声が高まったが、教務主任が再び遺族の前で疑念を受けとめ、説明することはなかった。発災からわずか3ヶ月後の2011年6月、市教委は2度目の説明会を途中で打ち切った。課長はメディアの囲み取材で「遺族は納得した」とうそぶいた。
市教委はその後、親に引き取られて無事だった児童たちに聞き取り調査を行った。しかしその内容は正確に調書に反映されておらず、指導主事が調査メモを破棄したこともわかった。教務主任が市教委経由で遺族に宛てたファックスは、半年も経ってから提示された。さらに指導主事のひとりは、津波から生還した児童の証言について、「子どもの記憶は変わるもの」と説明した。校長(=発災当日は年休のため無事)や教育主事たちの説明も二転三転し、説明会は度々紛糾した。
文部科学省が助言という形で介入し、市の予算で公的検証も行われた。第三者検証委員会には、高明な災害や教育の専門家が集められた。ところが1年余りの時間と5700万円もの莫大な費用をかけたにも関わらず、新たな事実も経緯の謎も明らかになることはなかった。逆に津波襲来時刻は曖昧になった。教育行政側の事後対応に問題があったことだけは認定したが、遺族が知りたがっていた責任の所在は、検討もしなかった。
そんな最終報告案が示された時、遺族や見守ってきた市議たちから、検証委に向けて怒号が飛んだ。
それまでの3年間、弁護士も入れずに自分たちだけで学校や市教委と対峙してきた遺族たちが、裁判に突入していく。23人の児童の19遺族・家族が、真相究明と市・県の責任の所在を明らかにするよう求めて提訴したのは、4回目の命日目前の、2014年3月10日のことだった。
そこから2019年10月に最高裁が市・県の上告を棄却して判決が確定するまで、裁判は5年半にわたった。
全て合わせて8年半の過程ひとつひとつに、遺族となった親たちの苦悩と議論と交渉と決断がある。我が子が亡くなった真相究明と責任追及を求めて連帯し、共に隘路の出口を探し続けたのは、たまたま同じ地域に暮らし、同じ学校に子を通わせていただけの、ごく普通の親たちだった。
そんな普通の人たちに対し、石巻内外から無理解のつぶても投げつけられた。ネットの中傷にとどまらず、病院の待合室で直接誹りを受けた遺族もいる。2019年から翌年にかけて、原告遺族3人に対する殺害予告文書が報道機関に送られる脅迫事件まで起きた(犯人は四国の教員だった)。
それでも真相究明を探り続けるある父親は、「これも子育てだから」とキッパリと言った。顔を上げて生きるその姿勢に、私はとても納得した。
どれだけ深く取材をしても、私は第三者の取材者でしかない。しかし、親たちの姿勢を通じて、必死で、「子どもたち」に向き合った私自身の時間でもあった。だからこそ、これだけの数の児童と教職員の命が失われた大惨事の「落とし前」を、教育界で着地させてほしいと期待していた。しかし市教委や学校は、最後の最後まで自己防衛の姿勢を続けた。こうした経緯に、私もいつの間にか心の底にわだかまりを溜めていたのだ。映画は、そのことを気づかせてくれた。
■ 裁判終えた元原告が「これからが本番」と話すわけ
判決では最終的に、市教委と学校(校長・教頭・教務主任ら)の組織的過失が認定された。画期な内容の決着だったが、今もなお、大川小の真相究明をめぐる親たちの闘いは続いている。その現場は、伝承活動だ。
2021年7月に大川小旧校舎の目の前に完成した市の大川震災伝承館(石巻市釜谷)には、大川小での惨事に関する展示がほんの触り程度しかない。
「あの日の前の大川小から、あの日に大川小で起きたこと、そして裁判に至るまでのことは、全てちゃんと展示してほしい。遺族にとってはこれからが本番なんです」
元原告で、映画の素材映像も提供した遺族の只野英昭さんはそう話す。亡くなった当時小学3年だった長女と、当時小学5年で津波から生還した長男の2人の父親として、記録にこだわり続けてきた。
裁判が認定したのは、学校や市教委の組織的過失だった。しかし損害賠償は、行政が代わりに負い、学校経営側・学校設置者側は誰も責任も取らなかった。その結果、命を預かる学校現場と学校防災のあり方が大川小の教訓を踏まえてどう変わったのか見えてこなくなった。それが石巻市の教育行政と防災行政の現状でもある。
「大川小の教訓は、救えたはずの命が、『自然だから仕方がなかった』とされたことです。市は、裁判所が認めた組織的過失を、どう対策にしたかを展示すべきです。今の子どもたちに緊急事態が起きた時に、2度と『仕方がなかった』と言われることのないよう、市がやるべき最低限のことだと思う」
こう話すのは、当時5年だった次女を亡くした遺族で、元原告の紫桃隆洋さんだ。記録や資料にこだわり、徹底して収集してきた。撮影した映像も映画で使われた。
大川小被災をめぐる課題は、校舎が保存され、裁判が終結し、伝承館が建って「これで終わり」では決してないのだ。生きたかった子どもたちの代弁者である、あの時30代・40代が中心だった親たちが、これから高齢化していくことや、ストレスで崩した健康状態も気掛かりである。
本当に長い混乱の日々だった。今は捉えづらくなった当時のそうした状況を、映画「生きる」は掘り起こしている。せめてもの思いで、親たちが司法に託した命の重み、その判決が社会に託した課題を引き受けるのは誰なのか、問われて続けていることを、映画を通じて確かめてほしい。
私ももう一度、劇場で観ようと思っている。
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本文の一部(監督から映画を作ると聞いた日)を訂正しました(2023/02/20)