教育界の大政奉還が始まる?学力テストの結果公表からみえるもの
4月に実施された全国学力・学習情況調査(全国学力テスト)で、静岡県の川勝平太知事が実施ルールに従わず、独断で校長名や市町別平均正答率を公表しました。この問題の背景にはなにがあるのかを当事者として反省する意味で振り返りたいと思います。
本稿は、あくまでも私見であり教育委員会としての見解ではありません。公式見解については教育委員会議事録を参照していただきたいと思います。会議録はこちらです。
公表を急いだ知事の真意とは
とりわけ驚愕したことは、知事は実施要領は守ると発言しながら、実際は各市町教育委員会の同意することなく、市町別の結果公表したことです。
公表による市町村の序列化、レッテル貼りなど懸念などから公表に消極的な意見もあるなかで、
知事は「学力テストは学力を上げるためにやっており、規則を守るためではない」、と独断で公表した経緯を報道でコメントしました。これに対して下村文科大臣は「明確なルール違反だ」としています。
なぜ、知事は早急に結果を公表しなければいけなかったのか。
なぜ、知事は市町教委や県教委との合議を経なかったのか。
なぜ、誰も止めることができなかったのか。
といった疑問を持つ方も少なくはないでしょう。
川勝知事は実施要領を熟読した上で、確信犯的に実施要領を無視して公表をしているとも発言しています。
知事の意図は、あえて反則的な行為をすることで文科省の曖昧な姿勢や学力テストのあり方そのものに一石を投じたともいえます。
だからこそ市町村教委の同意なく、公表を急いだのでしょう。
型破りな手段と思われがちですが、実は静岡県だけでなく、他の都道府県知事や市町村でも同じような問題が起きています。
とはいえこれまで実施要領を無視してもこれまで文科省から何の御咎めもありませんでした。
実際、文科省は知事が確信犯的に実施要領を違反しても、県教委だけに報告書を求め、知事に報告書は求めていません。つまり責任の所在が曖昧ともいえます。
知事にも文科省にも物申せない教育委員会
では、なぜ知事の暴走を誰も止めることはできなかったのでしょうか。
加藤文夫委員長が知事に学力テストの結果を提出する際、「お任せします」と発言しました。
とはいえ教育委員会の合議は、「知事にお任せ」ではなく「知事と公表について協議すること」だったのです。
県教育委員会の公表の基本方針は、実施要領に基づき、「市町教委の結果公表に関する判断を尊重して、一律に公表や非公表の対応を求めない」ことが決まっていました。
すでに県教育委員会は市町村教委に結果の公表判断を委ねているため、だからこそ公表をしたい知事と協議する必要があったのです。
加藤委員長が、知事に一任した理由は、
と述べています。
この発言から読み取れるように知事と県教委、とりわけ教育長との関係が良好ではなかったからこそ、委員長として波風をたてたくなかったのでしょう。その理由は昨年、知事は学校別データ受け取らなかった経緯がありました。
さらに知事の意向に沿わなければ予算措置等、運営に支障がでるかもしれません。その一方で県教委は文科省からも交付金を受けており、文科省との関係も円滑しなければなりません。
つまり、県教育委員会は知事と文科省の板挟み状態だったのです。
大政奉還期にある教育委員会
来年度から始まる新教育委員会制度では、これまで以上に首長の影響力が大きくなるなかで、教育委員会は知事と文科省の両者からこれまで以上に圧力が強くなっていくともいえます。
今回の知事の学力テスト結果公表問題はまさにその前哨戦ともいえるでしょう。
これまで教育委員会事務局のほとんどが学校の先生達であり、とりわけ静岡県の場合、教育長は元高校校長が歴代就任してきました。
しかし、滋賀県大津市のいじめ問題から端を発したように、先生達の集団であるために解決に時間がかり、自浄能力を問われるようになりました。武家政権ならぬ先生政権だったのです。来年度から始まる新制度では首長が新教育長を任命することになり、これまで以上に教育委員会は首長の意向が強く反映されることになります。
これまで教育委員会の中心にいた先生は現場に戻り、先生に変わり首長の意を汲む知事部局や外部有識者が教育行政に携わっていくことになるのです。閉塞化された教育ムラに風穴をあけることが期待できます。
その一方で今回の問題のように首長が政治パフォーマンスとして教育を利用することも懸念されます。
そこで首長の暴走にならぬよう新教育委員会制度では新たに「総合教育会議」を首長が設置し、大所高所からの意見を集約することで、教育委員会と首長の教育の方向性を共有することが求められています。また首長の意向が集中しないよう従前どおり教育委員会は決議権をもつ執行機関に留まることになったのです。まさに、江戸幕府から明治政府へ移行したように先生政権は幕を閉じ、制度が大きく変わる教育界の大政奉還期といってもいいでしょう。
とはいえ新教育委員会制度の前提になるのは、教育委員会の自浄能力です。
文科省や首長にも教育問題について是々非々で進言できる「強さ」が必要です。とりわけ、従前のような首長や文科省にお任せではなく、独自性を出しながらどう地域の課題を克服するか政策能力が問われています。
静岡県吉田町は、県内ではじめて学校別で学力テストの結果および方策を公開しました。
学校間の序列化につながるとの懸念などから公表に消極的な市町教委が多い中、自主的な取り組みをみせています。
吉田町のような姿勢こそが教育行政でもとめられている独自性です。
スポーツと政治にみる説明責任
話は変わりますが、教育とスポーツは政治に利用されやすいと思うのです。
例えばスポーツが外交のカードとして利用された五輪ボイコット問題です。
1980年の冷戦時代、旧ソ連時代のモスクワ五輪にアメリカはボイコットしました。日本もアメリカに追従しました。
その時、日本では出場する選手やコーチの意見を傾聴することなく政治的圧力によって強引にJOCや体協の幹部によってボイコットが決定しました。
一方でアメリカは、当時のカーター大統領がホワイトハウスに選手やコーチなどをよび、なぜアメリカがボイコットしなければいけないか丁寧に説明したそうです。アメリカや日本は結局、選手を犠牲にして五輪をボイコットしましたが、それで政局が変われたかどうかという確証はありません。
今回の学力テストの問題も根は一緒で、誰のための学力テストなのかという論点が見えてきません。
それでも、知事が自身の政治生命を賭け、政治的に利用するのならそれなりの説明責任があります。
一方的なやり方では賛同を得られません。
教育制度が変わるなかで、これまで以上に首長と対話が必要であり、忌憚のない議論を交わすことのできる発言力を教育委員会が身につけなければ、新制度下では乗り切ることができないでしょう。
とはいえ制度が変わっても教育の主役は子どもたちです。教育の主役は文科省でも、首長でも、教育長でも、先生でもありません。
教育委員会は、大人が子どもを利用する政治組織ではなく、子どもの未来を考える委員会でなければいけません。