'国家による暴力'...「済州4.3」から72年、鈍い解決への歩み
韓国では4月3日、「済州4.3」の72周年を迎えた。この日、済州島で行われた追念式には2年ぶりに文在寅大統領も出席した。文大統領の演説からは「済州4.3」解決への鈍い足並みと問題点が浮かび上がった。
●名前の無い「済州4.3」
「済州4.3」は「済州4.3」だ。1980年5月18日の「光州5.18民主化運動」と違って名前が無い。
以前は「済州4.3事件」と呼ばれていた。しかし、韓国政府の公式な謝罪もあり、暴挙や犯罪を連想させる「事件」という言葉は今や使われなくなった。しかし、正式な名称は今なお無いままだ。
ここに「未だ終わらない済州4.3」と呼ばれる所以がある。「済州4.3」が終わらない背景には、国家による暴力を南北朝鮮の対立から正当化し、今なおその枠組みから抜け切れない韓国政治の怠慢と、休戦が続く朝鮮半島という現実が横たわる。
●「済州4.3」とは
それでは「済州4.3」とは何か。少し長くなるが説明したい。米軍政下の1947年3月10日に労働者の95%が、3月1日の「3.1運動」記念集会で6人が警察の発砲により死亡したことを受け、その横暴に抗議するために集まったことを始点とする。
当時は朝鮮半島が米ソにより分断されていた時代で、南北が統一政府を作るか、単独選挙を行い分断が確定するのかというのは焦眉の問題だった。だがついに48年2月、国連で南北別々の選挙が決まり、5月10日に南側で単独選挙が行われることになった。
そして選挙を控えた4月3日の明け方、済州島で武装した350人が蜂起した。警察署を襲撃した彼らの主な思いは「警察や右翼組織による弾圧への反対」、そして「南北同時選挙の実施」と「米軍政の拒否」だった。
この時すでに、済州島では厳しい取締りが続いていた。前述の47年3月の抗議集会を米軍政は北朝鮮の支持を受けた「南朝鮮労働党」が主導した左傾化運動と見て、本土から左翼に恨みを持つ右翼集団「西北青年団」を呼び寄せ、48年4月までに2500人余りを逮捕・拘禁していた。
虐殺へ
公権力に反旗を翻した一団に対する弾圧は次第に無軌道になっていった。わずか350人の蜂起(最大時でも武装隊は500人とされる)にもかかわらず、鎮圧がうまく行かない中、米軍政側は警備隊(朝鮮警備隊。韓国軍の前身)を投入する。
そして5月10日の南側単独選挙当日、全体で95%を超える投票率の中、済州島では3つの選挙区のうち2つの選挙がボイコットにより成立しない事態が起きる。さらに6月23日の再選挙も「失敗」に終わった。武装隊の指導部は一方で北朝鮮を訪れていた。
そんな中、48年8月15日に韓国政府が樹立し、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国政府(北朝鮮)が樹立される。すると韓国の李承晩(イ・スンマン)大統領は、武装隊の指導部が北朝鮮を支持している点などから、済州島の山に篭もる武装隊に対し鎮圧を再び決意した。
李大統領は1948年10月に「海岸線より5キロ以上の地域に出入りする人々を暴徒と見なし、無条件射殺する」という布告を発する。さらに同年11月には済州島全土に戒厳令を敷いた上で、中山間(山の中腹)の村々を焼き払う「焦土化作戦」を展開。国家による暴力が島に吹き荒れた。
済州島の軍警は民間人に「武装隊に加担した」とレッテルを貼っては逮捕し、虐殺する行為を繰り返した。家族に行方不明者がいると、その者を「反乱者」と見なし、家族を代わりに殺したりもした。
このような鎮圧が続く中、1949年5月に再選挙が成立し、6月には武装蜂起隊総責任者の李徳九(イ・ドクク)が射殺され、以降、武装隊の動きは止んだ。
これだけではなかった。その後、50年から53年までの朝鮮戦争の時期に済州島では虐殺が再び起きる。「予備検束」と称し、政府のリストに挙がっていた「4.3」に関連する人物を一方的に拘束し、北朝鮮に協力するおそれがあると見なし殺したのだった。
「4.3」に加担したとされ、本土の刑務所に収監されていた者たちも、みな処刑された。
このように、済州島では1947年からはじまり、54年9月に漢拏山への入山規制が解けるまで、中山間の村々のうち95%が焼失し、当時の全島人口の10分の1にあたる25,000人から30,000人が亡くなったと推定されている。
韓国ではこの7年7か月をすべてまとめて、「済州4.3」と呼んでいる。
●2020年、文在寅大統領の演説
文在寅大統領が済州島の「済州4.3平和公園追念広場」を訪れるのは2018年4月3日に続き2度目のことだ。
当時は70周年という節目の年であり、さらに朴槿惠大統領の弾劾により保守政権が幕を閉じたことで、済州島で起きた悲劇を終わらせようという機運に満ちていた。
18年4月、文大統領は韓国の大統領としては03年の故盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に続く2度目の謝罪を行った。
そして演説の中で、「これ以上4.3の真相究明と名誉回復が後退することはない」、「4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない、明らかな歴史の事実として、位置付けられた」と宣言したのだった。
それから2年。文大統領はふたたび演説の中で「済州4.3という原点に戻り、その日、その虐殺の現場で何がねつ造され、何が私たちにくびきを負わせ、また何が済州を死に至らせたのか残さず明らかにしなければならない」と訴えた。
なお、演説全文はこちらから読める(外部サイト)
[全訳]第72周年 4.3犠牲者追念式 追念辞(2020年4月3日)
https://www.thenewstance.com/news/articleView.html?idxno=2812
実際に真相究明は続いている。今年3月、済州4.3平和財団は『済州4.3事件追加真相究明書』を刊行した。これは2003年に政府が『済州4.3事件真相調査報告書』を発刊して以来16年ぶりとなるものだ。
770ページにおよぶこの報告書では、「4.3」当時の被害の全数調査に取り組んだ。1万4,442名の被害を分類する一方で、行方不明になった犠牲者が過去、4.3委員会が確定した3610名よりも多い、4255名におよぶ新事実を明らかにした。
文大統領は演説でさらに今年から高校で採用される教科書に「4.3が『国家の公権力による民間人の犠牲であることが明示され、鎮圧過程で国家の暴力的な手段が動員された』と記述されることになった」と言及、これを「意義がある」と持ち上げた。
だが、完全な解決にはいぜん程遠い状況だ。
文大統領はこの日の演説で、「4.3の完全な解決の基盤となる賠償と補償の問題を含む『4.3特別法改定』がいぜんとして国会に留まっている」と最大の問題点を挙げた。
●なぜ改定されないのか
同法の改定は、2年前にも文大統領が言及している。実際、法案自体は2017年12月に発議されているが、その後、国会に係留されたまま審査すらされていない。
その理由について、与野党は互いのせいにする点に終始している。
3日、済州島を訪れた与党・共に民主党の李仁栄(イ・イニョン)院内代表は「残念ながら未来統合党の長い反対と非協力によりこうした状況になっている」と語った。
一方、第一野党・未来統合党の沈在哲(シム・ジェチョル)院内代表は「4.3特別法の改定は、政府・与党が中心になって意志をもってやるべき」とし、「未来統合党のためというのは言い訳にすぎない」とした。
韓国では4月15日に国会議員がすべて入れ替わる総選挙を控えている。その後、現在の議員の任期は5月29日まで残る。
こうした事情を前提に、李院内代表は「(選挙後の)4月末もしくは5月初頭に臨時国会を召集し、4.3特別法を改定できるよう全力を傾ける」とした。
一方の沈院内代表は「4.3特別法を改定し歴史の痛みを治癒すべきというのが党の基本的な立場」としつつも「総選挙後を考える余裕はない」と明答を避けた。
特別法の改定の見込みをどう見るか。3日、『済州4.3研究所』の金恩希(キム・ウニ)研究室長は筆者の電話インタビューに「与党側が強力に推進した訳ではないとする見方もあり、与野党双方に不満があるという声が多い。だが私は野党の不誠実、無関心が強いと見る」と述べた。
さらに「5月までに国会を通過すると思うか」という質問には、「そうは思わない。しかし最後まで改定に向けて声を上げていくというのが市民団体や活動家たちの立場だ」と答えた。
●政治家の怠慢
筆者もやはり、改定案が通らない背景には野党、特に未来統合党の意図が強く作用していると見る。もちろん、今さらマイクパフォーマンスをする与党も見るに堪えない。
未来統合党の前身である自由韓国党やセヌリ党、さらにハンナラ党などは遡れば済州4.3の弾圧を行った李承晩政権の「反共」の流れにたどりつく。済州4.3を市民による民主主義の発露や自由を求める運動として位置づけるのは簡単ではない。
さらにより大きく見る場合、互いを「アカ」「米国の傀儡」と罵ってきた南北関係が平和体制へと転換されない限り、根本的な解決が困難な問題と見ることができるだろう。このように、72年前に起きた悲劇は、複雑に絡まりあった朝鮮半島の現代史を浮き彫りにする。
この日の追念式では、3歳の時に父を「4.3」で亡くしたヤン・チュンジャさんが、孫に父の話をする映像が流れ、その孫が曾祖父に向けた手紙を朗読し参列者の涙を呼んだ。
「済州4.3」は果たして、本当に解決できない問題なのか?文大統領も無責任という訳にはいかないだろう。韓国の政治家たちの怠慢を強く指摘し、本稿を終わりたい。