【幕末こぼれ話】海援隊の月給は30万円だったが、隊長の坂本龍馬は別会計になっていた!
前回、坂本龍馬の亀山社中(海援隊の前身)が、薩摩藩から1人あたり21万円の月給をもらっていたことを書いた。これは隊長の龍馬も同額であったから、龍馬は意外と欲のない性格なのかもしれないとも述べた。
しかし、亀山社中が海援隊に改編され、土佐藩の支配下に入ると、龍馬の金銭感覚がこれまでとは随分違ってくる。
どうしてそういうことになったのか。海援隊隊長としての、龍馬の豪快な金銭事情を追ってみたい。
龍馬に甘い参政後藤象二郎
坂本龍馬は、薩摩藩の庇護下で海運や貿易に従事する亀山社中という集団を運営していた。その亀山社中が、慶応3年(1867)4月に土佐藩の傘下に入り、海援隊という新組織に改編された。
この海援隊は社中の頃と同様に、自給自足を掲げていて、土佐藩大監察の佐々木高行もそう語り残している。
「海援隊はもともと脱藩生の集合隊である。我が藩ばかりではなく、他藩人もまじっている。したがって藩から別に手当てはない」(「佐々木老侯昔日談」)
しかし亀山社中の頃は月額3両2分(約21万円)という事実上の給料が薩摩藩から出ていたので、彼らの収入は激減してしまうことになる。そこで龍馬は、海運業による利益が出るまでの間は、土佐藩に援助してもらうことを考えた。
ちょうど海援隊の本拠である長崎に、土佐藩の参政後藤象二郎が来ていたので、龍馬は後藤に無心を願い出、後藤も申し出どおりに金を出すことを承知する。その頃の長崎には、後藤によって土佐商会が設立され、藩の物産を売りさばくなどの拠点となっていた。
慶応3年(1867)4月19日、土佐商会の責任者として赴任していた岩崎弥太郎を後藤は呼び出し、こう伝えた。
「才谷(龍馬の変名」と社中合わせて16人、1人あたり月5両をくれといっている。今日、船出するということなので、とりあえず100両を才谷に渡してやってくれ」(「岩崎弥太郎日記」)
龍馬はいつの間にか亀山社中の頃よりも金額を増して、1人あたり5両を要求していた。ただ5両を16人分ならば合計80両なので、100両というのはやや多めの金額になっている。後藤という人は、どうも龍馬に甘かったようだ。
担当者岩崎弥太郎の困惑
のちに商人として大成する岩崎弥太郎は、この日が龍馬との初対面だった。ともかく後藤象二郎のいうとおりにして、100両を土佐商会の会計から引き出して、龍馬の宿に運ばせた。
すると、すぐに龍馬から手紙が届き、そこにはこう書かれていた。
「100両は隊士に渡した。ところで隊長である自分の給金はどうなっているのか」(「岩崎弥太郎日記」以下同)
龍馬も含めた16人分で100両(本来は80両)だったはずなので、弥太郎はひどく驚いた。どういうことかとあわてて後藤に相談すると、さすがに後藤も、それ以上出す必要はないとの返事だった。
弥太郎はほっとして、そのように龍馬に回答したが、龍馬からは再び手紙が届く。
「このたびの大坂行きは余儀なき事情によるものだから、ぜひにでも50両借用させてもらいたい」
表現が「借用」と変わってはいるものの、いったん渡せばおそらくは返ってくることはないだろう。弥太郎は頭を抱えたが、龍馬の強引さに押し切られ、結局自分のポケットマネーから50両を出すことにした。ただしそれだけの現金は持っていないので、土佐商会の公金を弥太郎自身が借用した扱いにしたのだった。
ちなみに50両は、日銀貨幣博物館が推奨する米価による換算(1両=約6万円)を行うと、現在の価値にして約300万円。龍馬は全額を自分のものにしようとしたわけではないだろうが、弥太郎側にしては大金だ。
不承不承ながら龍馬の宿におもむき、弥太郎は自ら50両を手渡した。すると龍馬は一気に機嫌がよくなり、酒と肴を用意させて弥太郎をもてなしたという。金を手に入れてこれほどあからさまに喜ぶ武士というのも珍しい。
どうやら龍馬は、薩摩藩に庇護されていた頃は、他藩に居候しているようなものだから金銭面で遠慮があったのだろう。それが海援隊として生まれ故郷の土佐藩に帰ってきたことで、いろいろといいやすい環境に変わった。後藤や弥太郎に平気で大金を無心できたのは、そうした背景があったからと思えるのである。