映画なのに見せない、『偶然と想像』。あなたの想像は映像を超える
嫉妬の時には最悪の敵である「想像力」。
同窓会からなかなか帰って来ない恋人。昔好きだった人と再会して……とか、見たくない映像を見せてくれる。
逆もある。
出会いの時に「赤い糸で結ばれた人だ!」と思い込ませてくれる。浮かれた時には最高の友でもある。
『偶然と想像』は、そんな豊かな、見る者の想像力にゆだねられた作品だ。
■脳内の映像はスペクタクル
なにせ、映像化してくれないから、こっちで想像するしかないのだ。
例えば、会話で過去を振り返っている時にフラッシュバックを入れて、当時の様子を映像で見せてくれたりはしない。スクリーンに映っているのは単に登場人物がしゃべっているところ。語られるシーンが実際どんな感じだったのかは、勝手に想像して脳内スクリーンで“見る”しかない。
その想像を邪魔しないように、という配慮だろう。
正対した静的な画像で、カメラはほとんど動かず、長回しもあって、会話はたんたんとドキュメンタリーのように記録される。スクリーンの映像は平板で退屈である。
だが、脳内スクリーンの映像の方がスペクタクルで興奮させられ、目が離せない。
■聞かせ興奮させ、“見”させる
普通、映画は映像で見せるものだ。映像抜きの説明的なセリフが出て来るとうんざりする。が、『偶然と想像』はその逆。
セリフが抜群に面白く、言葉が斬新で、「何でそうなんだ?」「えっ、もしかしてそれってこっち?」なんて思っているうちに、物語に引き込まれて意外なところへ連れて行かれる。
ある時なんかは私の想像力が暴走、次のシーンのめくるめく映像を先取りしたりもしたが、実際にはそんなことは起こらず、肩透かしとか。
映画なのだが、あなたが主にしているのは見ていることではなく、聞いていること。で、主に見ているのは映画館のスクリーンではなく、脳内スクリーンの方なのだ。
想像力は一人ひとり違う。だから、同じ会話から想像する映像も、予想する展開も異なるだろう。
語るシーンを映像で見せて、語りの内容は脳内映像に任せる。そんな映画は記憶にない。
■会話劇を嫌うスペインでも絶賛
スペインは見せることに積極的な国だ。
毎度、性描写のたとえで申し訳ないが、検閲のない、何事も開けっぴろげの国である。隠すことで逆に情が煽られる、という心情は理解されにくい。
だからこそ、この国では日本映画(特に昔の作品)がしばしば「遅い」と評される。
詫びとか寂びとか「背中で泣く」とか「雄弁な沈黙」とかがピンと来ない彼らには、スペクタクルなことが起こらない、見せてくれない作品は、間延びして退屈に感じるのだ。
が、そんなスペイン人の評論家たちにもこの『偶然と想像』は絶賛されている。彼らにして会話に興奮した、というのは発見だった。想像力は国境を越えるのかもしれない。
公式ホームページにある「驚きと戸惑いの映画体験」というのは、まさに言い得て妙である。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。