ルポ「ガザは今・2019年夏」・2「戦争を生き延びた極貧家族(後編)」
―戦争を生き延びた極貧家族(後半)―
【2014年夏・ガザ攻撃】
2014年夏、ガザ地区は、イスラエル軍の激しい攻撃にさらされた。連日の空爆と地上侵攻によって住民に大きな被害をもたらした。約50日間続いたこの攻撃によって、住民約2200人が犠牲となり、1万人を超える人びとが負傷した。また2万戸の住居が破壊され、数十万の住民が難民化した。
このガザ攻撃の発端は、7月初旬に、ガザを実効支配するイスラム勢力「ハマス」戦闘員9人がイスラエル軍の攻撃で殺害された事件である。その報復として、ハマスは近隣のイスラエルの街をロケット弾で攻撃した。それに対し、イスラエル軍「イスラエル市民に対するテロを止めるため」という名目で本格的にガザ地区への攻撃を開始した。
しかしその背景には、分裂し対立するハマスとヨルダン川西岸のパレスチナ自治政府の統一の動きを阻止する狙いがあったともいわれる。
【アッザム家の悲劇】
アッザム・ナーセルとその家族はイスラエルとの国境に近いガザ北東部、ベイトハヌーン町で、一族80人が5階建ての家で暮らしていた。その家族と最初に出会ったのは、2014年夏、約50日間に及んだイスラエル軍のガザ攻撃の最中、避難先となったガザ市内の国連学校の教室だった。
イスラエル軍がガザ地区に地上侵攻した直後、ナセール家の家屋が戦車の砲撃を受けた。その時、2階にいたアッザムの2人の弟ナシーム(30)とカラム(29)は砲撃に直撃された。2人はほぼ即死状態だった。
母親ラティーファ(58)は、その時の息子の状態を泣きながら語った。
「顔に砲撃を撃ち込んだんです。脳みそが破裂し、両方の目玉が飛び出して、顔がぐしゃぐしゃになった。ひどいと思いませんか?ひどすぎると思いませんか?バルコニーから外を眺めていた顔がこんなになるなんて、許されますか?まだあんなに若かったに・・・・」
そう語りながら、ラティーファは慟哭した。
母親ラティーファと同じ教室に避難する、殺されたカラムの妻、サマール(28)には4人の娘と息子1人が残された。
「昨夜、娘が『お父さんに会いたい!』と言い出しました。『瓦礫の中からお父さんを起こしてきて、私の頬の両方にキスをしてもらうの』と言うんです。こっちの1歳の子は、保険証に貼ってあるお父さんの写真を写真を指差して、『お父さん~』と呼びかけます。こんなに幼くして、『お父さん』と呼ぶことができる幸せを奪い取られてしまいました」
母親ラティーファはもう一人の息子の嫁を指して言った。
「この嫁に、ベールの中に何を入れているか聞いてごらんなさい。亡くなった息子の形見の服を放さず持ち歩き、ときどき出してはその匂いを嗅いでいるんです。『頭がおかしくなったのではないか、自殺するんじゃないか』と心配しました」
【支援しないハマス政府】
それから15ヵ月後の2015年10月、私はベイトハヌーン町でナセル一家を探し回った。住民に尋ね歩き、やっと見つけた一家は、町外れに設置されたコンテナハウスで暮らしていた。
夫を殺害されたサマールが「コンテナハウスに住んで、家族はバラバラです」と訴えた。
「夏はとても暑くて、冬の雨季は寒いうえに湿気が上がります。雨漏りした湿気で天井の一部が腐って、寝ている人の上に落ちてきました。壁にも穴があり、ネズミが侵入してきて食料を食べてしまいます。ここは野外だから時にはヘビも入ってきて、子どもたちにはとても危険な場所です」
いったい前回の戦争はこの家族に何をもたらしたのか。そう問う私に母親ラティーファは怒った声で答えた。
「(あの戦争がもたらしたのは)ただ死と家の破壊だけです。殉死者と家の破壊を増やし、私たちをコンテナハウス生活に投げ込んだんです。これが私たちの生活です」
「ハマス政府は支援しなかったんですか?」と私は聞いた。
「いいえ。何も。息子たちは無駄死にしました。2人の息子の孤児たちを支援してくれたすべての組織に感謝します。カタールやマレーシアや他の外国の慈善組織だけが子どもらに衣類や食物やお金を支援してくれました。他の誰もこの子らを支援してくれません」
一家が暮らすこのコンテナハウスはガザ市当局(ハマス系)から無料で提供されたわけではない。停戦の直後、この一家のように家が全壊した家族には当面かかる借家の家賃代としてUNRWA(パレスチナ国連難民救済事業機関)から1500ドルが支給された。しかしその金を銀行に受け取りに行くと、すでにそれはガザ市当局に渡っていた。一家に「提供」されたコンテナハウスの「賃貸料」だと市当局は説明した。つまりコンテナハウスは無償で提供されたものではなかったのである。
【生活は地獄】
ナーセル家の長男アッザム(当時・39歳)は妻ワドゥハ(当時・34歳)、19歳(当時)の長男モハマドを頭に9人の子どもらと、3つのコンテナハウスで暮らしていた。
夫婦合わせて11人の家族の糊口を凌ぐために、アッザムは10年前から働き始めたコンクリート製造会社での仕事を続けていた。袋をナイフで割き、中のセメントをコンクリート製造機械の取入れ口に移す作業だが、セメント塵が舞う中、防塵マスクやメガネもなく作業を続けなければならない。会社側に防塵マスクとメガネを要求したが、「自分の身体は自分で守れ」と言われた。仕方なく、マスクもメガネもなく作業を続けるしかなかった。その粉塵の影響のためにか、朝、激しく咳き込んだ。時間も不定期で、夜に呼び出されるときもある。そんな過酷な仕事だが、月給は約2万2千円。とても11人の家族は養えない。不足分を国連や慈善組織などの支援でなんとか賄った。
9人の子どもの母親ワドゥハは、生活苦を訴えた。
「子どもたちを育てる上で、何が一番たいへんかって?『貧しさ』です。『学校の他の子らはお小遣いをもらっているのに、どうして僕はもらえないの?』と幼い息子は泣き出します。子どのにとって辛いことです。ときどき娘のバス代さえあげられないんです。肉類は1ヵ月に一度ぐらいしか食べられません。私は今病気を抱えていますが、治療も受けられないんです。『なぜお父さんはもっと給料のいいところで働かないの?』と聞かれます。『イスラエルに封鎖されているからよ』と説明します。
月800シェケル(2万4千円)でなんとかやっていくために懸命です。時には国連機関から、時には私の実兄から、20~30シェケル(600~900円)を支援してもらいます。時には畑に行って、残った野菜を拾います」
そのワドゥハに、「子どもたちの将来をどう考えていますか?」と聞くと、こう答えた。
「子どもたちには世界は塞がれ将来なんてありません。子どもに与えられるものがまったくなく、大きくなっても仕事が見つけられないでしょう。働いて、将来を築く道は閉ざされているんです。『明日』よりも『今日』の方がいい。つまりどんどん悪くなっていきます。生活は地獄です。生きていてもいいことはありません。死んだほうが楽です」
【ガザを出たい】
「希望は?」と問う私に、アッザムは「何もありません」と即答した。
「希望なんてないんです。戦争から2年になろうとしているけど、何も状況は変わってはいません。戦争中には『家は再建されるから、心配するな』と言われたけど、何も状況は変わっていないんです。他の世界の人のように、朝起きて新しい日が始まり、幸せな生活がある。そんな希望は私たちには全くないんです」
「先月ずっと、妻と子どもたちを連れてガザを出ることばかり考えていました。どんなに金がかかってもガザを出たいです。どんな方法を使っても出たい。ガザを出られるのなら、どんな国でもかまいません。もう、この生活にうんざりしています」。
イスラエルのガザ攻撃で家族を殺害され、住居も破壊されて住処を転々としたナーセル家は、その後、失業で極貧状態に陥っていく――その過程は2200人以上の住民が犠牲となり、1万人を超す負傷者を生み出し、家屋の破壊のために数十万人の住民が“難民化”されたとあのガザ攻撃からの5年間を生き抜いてきた200万人のガザ住民の象徴のように思える。
(続く)