東日本大震災で活きた伊達政宗の時代の地震教訓
400年前、仙台を襲った津波
1611年12月2日(慶長16年10月28日)に慶長三陸地震が発生し、東北地方の太平洋岸を大津波が襲いました。この時期には、大地震が繰り返し発生していました。1586年には天正地震が中部日本を襲い、多くの戦国大名の城が倒壊しました。1596年9月には1週間の間に、慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震が発生しました。その後、慶長の役、関ヶ原の戦いを経て江戸時代になりました。江戸に入って、1605年には慶長の東海地震が発生しました(近年、東海地震ではないという考え方も示されています)。そして、1611年に慶長三陸地震が発生し、北海道、三陸や仙台を大津波が襲いました。まさに大地動乱の時代と国盗り物語の時代が重なっています。東北地方太平洋沖地震は、慶長の地震津波からちょうど400年後に同じ被災地を襲ったことになります。
慶長三陸地震は北海道沖の震源域も含む超巨大地震だったとの考え方もあり、また、三陸地震の呼称についても奥州地震とすべきとの議論もあります。
ちなみに、慶長地震が発生した10月28日は地震の特異日です。慶長地震は旧暦の10月28日ですが、新暦の10月28日には、1707年宝永地震と1891年濃尾地震が発生しています。前者は有史以来最大の南海トラフ地震、後者は陸域で起きた最大の活断層地震です。
伊達政宗の復興事業
地震が起きたときの仙台の殿様は、独眼竜の伊達政宗です。地震当時、44歳でした。亡くなったのは地震の25年後で、当時としては長命でした。
政宗は1601年に仙台城築城のため、青葉山に縄張りを始めます。地震が起きたときには、政宗は高台にあった仙台城に居たようです。 政宗は、おくり名を貞山と言いますが、その名前が冠された貞山堀は、有名です。阿武隈川河口と名取川河口を結ぶ海岸に平行して作られた運河で、震災後の復興事業の一つとも言えそうです。周辺の黒松の防潮林も含め、津波の勢いを弱める効果もあったのではと思います。
地震後には、津波で浸水した場所を塩田として開発し、製塩業という復興事業を進めました。塩釜(塩竈)をはじめ、仙台周辺には、「塩」や「釜」がつく地名が沿岸部に沢山あります。塩田開発に合わせて新田開発も進め、住民を沿岸部に戻す施策を進めました。ですが、こういった沿岸部の開発が、津波被害を繰り返すことにつながったかもしれません。
奥州街道
五街道の一つの奥州街道は1646年に完成しましたが、仙台以北は、見事に津波被災地を避けて内陸部を通っています。奥州街道に沿って作られたのが国道4号や東北自動車道です。東日本大震災では、この南北の軸からくしの歯状に沿岸部へと道路をつなげるという「くしの歯作戦」により早期に道路啓開が行われました。また、奥州街道沿いの遠野市や盛岡市などの内陸の都市は被害が少なかったため、沿岸部への救援役にもなりました。
津波を伝えるお不動さん
仙台市内には、浪分神社(仙台市若林区)や浪切不動堂(仙台市宮城野区)など、いかにも津波の到達地点を示すような名前のお不動さんがあります。そこより陸には津波を遡上させないぞと、不動像が海を睨みつけているのでしょうか。また、津波の遡上を伝える蛸薬師(仙台市太白区)も有名です。市内各地にある、慶長の地震津波を伝える社が、400年前の地震の大切な伝承役を担ってくれていると感じます。
慶長遣欧使節団
伊達政宗が家臣の支倉常長を欧州に派遣したのは、地震から2年後の1613年です。いかにも、地震津波からの仙台藩の復興のために、欧州との交易を進めようとしたように感じられます。
このように、慶長三陸地震後の様々な施策が、仙台の復興とまち作りの基礎となり、また東日本大震災の被害軽減にもつながったように感じられます。改めて独眼竜の眼力の凄さを感じます。