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もはやこれまでか!? 徳川家康がピンチに陥った3つの戦い

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 経営者や政治家の中には大ピンチを乗り越えて、大きく成長した人もいるだろう。徳川家康も同じことで、ピンチを脱することによって、天下人の道を歩んだ。ピンチとなった3つの合戦を紹介することにしよう。

◎一言坂の戦い

 元亀3年(1572)、武田信玄は織田信長、徳川家康を討つべく、部隊を3つに分けて西上した。同年10月、信玄が率いる約3万の軍勢は遠江に攻め込み、徳川方の二俣城(静岡県浜松市)に迫った。家康は信玄の軍勢を叩くべく、出陣したのである。

 戦いの舞台となったのが一言坂(静岡県磐田市)である。しかし、家康の軍勢はただちに撤退し、殿(しんがり)の本多忠勝、内藤信成らが武田勢に追撃されるありさまだった。徳川勢は浜松城に帰還したが、二俣城は武田勢に攻囲されたのである。

◎二俣城の戦い

 元亀3年(1572)10月、一言坂の戦いで徳川勢に勝利した武田勢は、徳川方の中根正照が籠る二俣城(静岡県浜松市)を攻囲した。武田氏は正照に降伏を勧告したが、それは拒否された。ところが、武田勢は二俣城を攻めあぐね、あっという間に12月を迎えたのである。

 武田勢は二俣城を無理に攻めることを断念し、水の手を断ったうえで籠城戦に持ち込んだ。水の手を断たれた正照は窮地に陥り、降伏勧告に従って開城したのである。開城後、正照は浜松城に逃げ込み、二俣城は武田勢に接収されたのである。

◎三方ヶ原の戦い

 元亀3年(1572)12月、徳川勢と武田勢の戦いの舞台は三方ヶ原(静岡県浜松市)に移った。戦いの結果、勝利したのは武田勢だった。家康は命からがら浜松城に逃走した。その際に家康が脱糞したとか、「しかみ像」を書かせたというのは虚説である。

 家康は武田勢に敗北して窮地に陥ったが、武田勢は本国の甲斐への撤退を開始すると、翌年4月に信玄は信濃駒場で亡くなった。まさしく家康は、九死に一生を得たということになろう。もし信玄が生きていて西上を続けたならば、どうなっていたのだろうか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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