江戸への道中で遭難した、孫太郎の軌跡
江戸時代は厳しい鎖国体制が敷かれていたこともあり、自由に海外に行くことはできませんでした。
しかし中には遭難したことによって思わぬ形で海外に行ってしまう人もおり、今回紹介する孫太郎はその一人です。
この記事では孫太郎がどうして漂流することになったのかについて紹介していきます。
嵐に呑まれ、太平洋へと放り出された孫太郎
1744年、福岡藩領の唐泊浦、今で言えば福岡市西区宮浦で孫太郎は産声を上げました。
時は巡り、1763年の秋、彼は五カ浦廻船の誇りとも言える新造船、伊勢丸に乗り込むこととなります。
船頭は若干18歳の青柳十右衛門、だが船の実権は経験豊かな仁兵衛と新七が握っていました。
まさに若き十右衛門が指揮を学ぶべき海の修行場であったのです。
伊勢丸は、福岡から大坂、そして江戸へと米を運び、やがて津軽へと向かいます。
航海の途中、嵐が彼らを襲いました。
源蔵という見習いが海に落ち、行方不明となったのです。
人の生死はまるで潮にさらわれる砂のように儚く、誰もが心に重たいものを抱えたまま旅は続きました。
津軽で材木を積み、箱館(今の函館)に寄港した時、事件は再び起こります。船員の長作が船の金を盗み、宿屋の娘と駆け落ちしたのです。
この事件は伊勢丸の士気を大いに削り、船内は暗雲立ち込めるような重苦しい空気に包まれました。
彼らが再び海に戻ると、嵐はますます激しさを増しました。
嵐の中、意見は分かれたのです。
仁兵衛は進むべきだと主張し、新七は港に戻るべきだと唱えました。
平船員の孫太郎たちは、ただ嵐の猛威に耐えながら、言葉を飲み込むしかなかったのです。
闇が海を覆い尽くし、船は孤立しました。
雷鳴と波の音は、天地が崩れたかのように響き渡り、船は奈落の底に沈んでは浮き上がります。
孫太郎は後にこの時の恐怖を「地獄の責め苦とはこのようなものではないか」と語っているのです。
嵐は長く続き、伊勢丸は舵を失い、漂流を余儀なくされました。
マストを切り倒し、船板で代わりの舵を作ったものの、それも長くは保たなかったのです。
船は太平洋の風に流され、やがて赤道の海流に乗って西へと向かいます。
しかし、食糧と水が尽き、乗組員たちは極限の飢えと渇きに苛まれるのです。
彼らは雪駄の皮で釣り糸を作り、魚を釣ってそれを食べることによって命を繋ぎました。
しかしその努力も虚しく、粥を20人で分け合う日々が続いたのです。
まさに命の綱が一本の糸のように細くなっていく中で、彼らは冗談を言い合い、互いを励ましながら生き延びようと必死でした。
海の旅は、まるで物語の世界に迷い込んだような奇妙で残酷な夢のようなものでした。
嵐も、飢えも、絶望さえも、まるでどこか遠くの物語の一部であるかのように思えてくるほどに。
参考文献
岩尾龍太郎(2006)「江戸時代のロビンソン―七つの漂流譚」弦書房