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佐村河内守と奥田民生:広島出身文化人の明暗

松谷創一郎ジャーナリスト
2014年3月7日、記者会見する佐村河内守氏(写真:Motoo Naka/アフロ)

2歳違いの佐村河内守と奥田民生

 佐村河内守と奥田民生は、ともに広島出身。そして2歳違いである。

 佐村河内守は1963年、広島市に隣接する五日市町に生まれた。1985年に広島市に編入されるまで、五日市は日本でいちばん人口の多い町だった。広島駅からも15分ほど。古い商店街などもある郊外のベッドタウンだ。

 奥田民生は1965年、広島市東区尾長生まれ。尾長は広島駅北口から約1キロほど。広島駅には近いが、繁華街はさほどないベッドタウンである。そもそも広島駅周辺は、広島の中心街ではない。

 佐村河内守は、私立崇徳高校卒。この学校は特進クラスはあるものの、進学校のなかではほどほどの学校だ。

 奥田民生は、広島県立広島皆実高校卒。当時、公立進学校のなかでは名門とされていた市内六校(入試は合同)のうちのひとつである。この市内六校のすべり止めが崇徳高校だった。

 佐村河内守は、卒業後の82年に上京。アルバイトをしながら88年にソロのロック歌手としてデビューしたとされるが(これが定かかどうかはわからない)、鳴かず飛ばず。96年、映画『秋桜 コスモス』の音楽を手がけ、99年にゲーム『鬼武者』の仕事で脚光を浴びる。

 奥田民生は、84年に高校卒業。広島の専門学校に進学。その後オーディションに受かり、87年に上京。ユニコーンでメジャーデビュー。いきなり大ヒットし、以降順風満帆。93年にユニコーンは解散し、96年にはPUFFYをプロデュースし、これまた大ヒット。

 佐村河内守は、2008年にG8議長サミットで『交響曲 HIROSHIMA』を発表。聴覚障害者、被爆二世の肩書で秋葉市長に取り入り、ヒロシマ利権に見事に食い込む。

 奥田民生は、2004年に広島市民球場でカープのユニフォームを着てソロライブ。その模様は木村カエラ主演の劇映画『カスタムメイド 10.30』にもまとめられている。2009年にはユニコーンの活動も再開。2011年に広島厳島神社でソロライブもした。

“ヒロシマ文化人”として生きること

 “ヒロシマ”の「平和」や「原爆」は、広島出身の文化人が半ば特権的に利用できる。広島の文化も、結局はそこに回収されがちである。逆に言えば、それさえやっていれば、能力は問われずに注目される(ただし広島だけで)。

 虚飾にまみれた佐村河内守が最終的にそこに行き着いたのは、ある意味必然である。才能ない広島出身者の最後の砦が「平和」や「原爆」だからだ。それさえやっていれば、広島のひとたちは優しく受け止めてくれる。

 地位も名声もある奥田民生には、「平和」や「原爆」は必要ない。好きなカープを応援し、ユニフォームを着て広島市民球場でライブをし、実家が近所の『めざましテレビ』の三宅正治キャスターと広島風お好み焼きを食べる。

 広島にとって、原爆が過去の象徴だとすれば、カープは未来の象徴だ。このどちらに賭すかで、広島出身者のパーソナリティも見えてくる。

 もちろん、「平和」や「原爆」を蔑ろにしろ──とは決して言わない。『はだしのゲン』の故・中沢啓治や『夕凪の街 桜の国』のこうの史代のように、“ヒロシマ”ではなく広島を真摯に見つめる文化人もいる。ただ、佐村河内守のような存在を作ってしまったことを、広島市や広島の人間は肝に銘じたほうがいい。

ジャーナリスト

まつたにそういちろう/1974年生まれ、広島市出身。専門は文化社会学、社会情報学。映画、音楽、テレビ、ファッション、スポーツ、社会現象、ネットなど、文化やメディアについて執筆。著書に『ギャルと不思議ちゃん論:女の子たちの三十年戦争』(2012年)、『SMAPはなぜ解散したのか』(2017年)、共著に『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学』(2017年)、『文化社会学の視座』(2008年)、『どこか〈問題化〉される若者たち』(2008年)など。現在、NHKラジオ第1『Nらじ』にレギュラー出演中。中央大学大学院文学研究科社会情報学専攻博士後期課程単位取得退学。 trickflesh@gmail.com

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