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ライオンズブルーの左のサイドスローに魅せられて<後編> 昭和と平成をまたぐ西武黄金期を知る小田真也

室井昌也韓国プロ野球の伝え手/ストライク・ゾーン代表
昭和、平成にまたがる西武の黄金期を支えた小田真也(写真:ストライク・ゾーン)

前編からつづく

前編で紹介した韓国・サムスンライオンズの左のサイドスロー、イム・ヒョンジュンはプロとして生き残るために投球フォームを変えた。では左のワンポイント投手として昭和から平成にまたがる西武の黄金時代を支えた小田真也は、どのようにしてサイドスロー投手になったのか。イム・ヒョンジュンに会った2日後、小田が暮らす静岡県沼津市を訪ねた。

厚すぎる西武の選手層。メシを喰うための選択

58歳になった小田は今、スポーツデポ沼津店で野球アドバイザーとして勤務している。現役時代のプロフィールに記されている179cm70kgというスラリとした立ち姿は、当時とさほど変化がない。伊東、清原、辻、石毛、田辺の内野陣が囲むマウンドに、一塁側のブルペンから歩みを進める姿がシンクロする。

昔と変わらぬ大きな瞳に高い鼻。おでこから頭頂部の変化に30年の歳月を感じる。小田もまたサイドスロー投手転向のきっかけは首脳陣の勧めだった。

「85年春のキャンプが終わった後、広岡(達朗)監督に『上(1軍)では使えない』と言われて変えました。ライオンズの1軍でメシを喰うにも選手層の壁が厚すぎて、1軍枠に入るということはとんでもないことでした。キャンプの時点でピッチャーを数えると10人は1軍入りが決まっている。敗戦処理を含めた1、2枠を他のピッチャー30人で争いました。その前の年は2軍の先発ローテーションで投げていて、防御率は1位の小野(和幸)の次の2位だったけど、2軍で成績を残しても一銭にもならないでしょ」

当時の監督の広岡と投手コーチの西三雄から「ダメなら上投げに戻していい」と言われて始めたフォーム改造。ただ小田が他の左のサイドスローと違うのは偉大な先駆者がチームにいたことだ。西武には左のサイドスローの本家、2017年に63歳で亡くなった永射保がいた。広岡は小田に「永射の後釜が欲しい」と言われていた。

スポーツデポ沼津店には小田の功績が飾られたコーナーがある(写真:ストライク・ゾーン)
スポーツデポ沼津店には小田の功績が飾られたコーナーがある(写真:ストライク・ゾーン)

先人・永射保の存在

「永射さんといういい見本がいましたし、右投げですが下から投げる山田久志さん(元阪急)を目指しました。しかしそう簡単なことじゃない。投げ方がまるで違うから。上からなら140キロが投げられるのに下だと120キロしか出ないし、緩い球をカンカン打たれるのでストレスになりました」

そこで小田は投げる意識を変えた。参考にしたのは右の速球派の同僚、柴田保光だった。

「柴田さんのことは『インチキ横手投げ』と呼んでいたんですが、柴田さんみたいに上半身を起こしたまま腕だけ下げて投げていけば速い球が投げられるし、横曲がりのカーブも使えると柴田さんをイメージしたら良くなりました」

また同じ和歌山出身で右のアンダースローの石井毅(のちに木村竹志に改名)にアドバイスをもらった。

「『下から投げても手首を立てていかないと、高校生の下手投げピッチャーみたいにシュートしか投げられないよ。小田ちゃんは今そうだよ』と言われて、下手、横手投げでもボールは上から切るように、フォロースローで必ず手の甲が上に戻ってくるように投げないとダメだと教えてもらいました」

横手投げ、下手投げ投手というと腕の角度に目がいくが、手首を立てる重要性を説く人は多い。

現役当時の投球写真を見る小田。「実家が水害に遭って昔の写真はあまり残っていないんです」(写真:ストライク・ゾーン)
現役当時の投球写真を見る小田。「実家が水害に遭って昔の写真はあまり残っていないんです」(写真:ストライク・ゾーン)

サイドスロー転向2年目の86年、オープン戦で結果を残した小田は左のワンポイントリリーフとしての地位を確立し、1軍での登板数は前年の4試合から大きく増えて35試合になった。それと入れ替わるように85年は33試合に投げていた永射の登板数は5試合と激減。永射は翌87年、大洋に移籍した。

「僕が横手投げしてからは永射さんからの『圧』がありました。それは当たり前のことで、僕らも他の左投手とは口も利かなかったしお互いの意識はバチバチしたものがありました。永射さんには打たれたら怒られましたね。ちょっと調子が悪くなると2軍にいる永射さんと代えられる。背後には永射さんがいると思うと苦しかったし一生懸命やりました」と永射の存在が小田を苦しめ、成長させた。

「その頃の西武はチームは強いんだけど左投手が弱くて、森(祇晶)監督には常に『ウチの左投手は(工藤)公康ひとりしかいないけど、他の左が5人で束になってかかっても公康には勝てない』と言われていました。実際そうでしたね」

小田はワンポイントに対する認識がやる前と後では大きく変わったという。

「ワンポイントをやる前は永射さんを見て、バッター1人だけを相手する楽な仕事だと思っていました。でもやってみると丁半博打のようで良いか悪いかのどちらか。1、2イニング投げるのとは違って打たれたら終わり。フォアボールなんて絶対ダメ。失敗したら取り戻すことが出来ない、しんどい仕事でした」

森監督1年目の86年、西武は前年に続きリーグ優勝した。そして迎えた広島との日本シリーズは初戦引き分けの後、広島が3連勝。第5戦以降は西武が4連勝という史上初の第8戦までもつれた戦いとなった。しかしこの日本シリーズで小田は登板していない。

「結局、一番大事なところではやっぱり永射さんだったんです。シーズンでは僕がワンポイントとしてやっていたけど日本シリーズでは投げられなかったのは悔しかったです」

第4、8戦と広島の左の強打者、長嶋清幸、小早川毅彦の打席でマウンドに上がったのは小田ではなく、百戦錬磨の左殺しの永射だった。

店内に展示されている現役当時のグラブを手に投球を見せた小田真也(写真:ストライク・ゾーン)
店内に展示されている現役当時のグラブを手に投球を見せた小田真也(写真:ストライク・ゾーン)

「クラリネットをこわしちゃった」の真実

小田が現役の頃、今では定番になっている選手の登場曲というのは一般的ではなかった。しかし当時の西武球場は打者、投手それぞれが選んだ曲が出番になるとオルガンで生演奏されていた。

筆者が記憶している限りでは田淵幸一がプロレスラーのミル・マスカラスの入場曲としても知られる「スカイ・ハイ」、山崎裕之はシンガーソングライター・EPOの「う・ふ・ふ・ふ」、スティーブ・オンティベロスは「スティングのテーマ」といった選曲だった。

そんな中で小田の登場曲は子供だった筆者にとって衝撃だった。その曲は童謡の「クラリネットをこわしちゃった」だったからだ。得点圏にランナーを置くピンチ。相手の打順は中軸打線という場面で、オルガンが奏でるのは「♪ぼくのだいすきなクラリネット」で始まり、「♪オ パキャマラド パキャマラド」と軽快なリズムを刻むという、緊迫感とは不釣り合い以外の何物でもなかった。

小田はその選曲の理由について表情ひとつ変えずに淡々とこう話した。

「『どうしよう、どうしよう』ですよ。当時、娘が2、3歳と小さかったこともありますけど、マウンドに上がる時の心の中の気持ちを面白がってその曲を選びました。ノーアウト二、三塁、ノーアウト満塁。ここで打たれたら『どーうしよう』ということです。打たれても殺されるわけではないと言われましたが、殺された方がいいと思う程の精神状態でした」

小田にとっての「クラリネットをこわしちゃった」はおふざけと心の中を代弁したメッセージだった。

変則左腕を目指すキミへ

小田に前回紹介したイム・ヒョンジュンの投球の映像を見てもらった。小田はイム・ヒョンジュンについて「だいぶクロスに踏み込んでいる」とし、「コントロールが良さそうに見える。ただコントロールがない方がバッターには怖さがある」と話した。

イム・ヒョンジュンは手首の使い方を「意識していない」と答えていたが、小田も「ボールを上からは切っていない」と映像を見て感じた。

イム・ヒョンジュンの投球映像を見る小田(写真:ストライク・ゾーン)
イム・ヒョンジュンの投球映像を見る小田(写真:ストライク・ゾーン)

小田は左のサイドスロー、ワンポイント投手という役割について「それでメシが喰えるならナンボでもせいと思いますが、伸び幅はないのかなと思います。プロに入ってすぐに自分が通用するかどうかというのはわかります。喰うために転向する必要はあると思いますが、ピッチャーとしての可能性は消えます。難しいですね」と必ずしも勧められるものではないと話す。

「ワンポイントは気持ちが打者1、2人しか持たないし、ストレスが溜まる仕事で苦しかった野球人生でした。あまり精神状態が表情には出ない方でしたが、内心は『こわしたクラリネット』でしたから」

優勝するのが当たり前だった常勝軍団の中で、常にピンチに立ち向かっていた小田が発する言葉には重みのあるものも多かった。しかし暗さは感じない。ストレスを感じる仕事を任されながら、そこに挑むテーマ曲に「クラリネットをこわしちゃった」を選ぶ、飄々とした様が小田らしさであり、とらえどころのなさがピンチで門田博光(元南海など)、藤井康雄(現オリックスコーチ)といった並み居る強者にも動じなかったのだろう。

小田にとって左のサイドスローとは何か。

「何十年も経ってこうやって取材を受けているんだから、結果的には良かったんでしょう。自分の野球人生を振り返った時、先発をしたかったというわけではないですが、横手投げを断っていたら可能性のある投手生活を送れたのではないかとも思います。でも自分に力がないから横から投げろと言われたのでしょうし、後悔はありません」

小田真也(西武)年度別成績
小田真也(西武)年度別成績

<小田真也 左投左打。新宮商、京都大丸から1981年のドラフト3位で西武入り。1993年に引退するまでの通算成績は196試合4勝6敗9セーブ。防御率4.39。1961年1月18日生まれ、ももクロ好きの58歳>

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韓国プロ野球の伝え手/ストライク・ゾーン代表

2002年から韓国プロ野球の取材を行う「韓国プロ野球の伝え手」。編著書『韓国プロ野球観戦ガイド&選手名鑑』(韓国野球委員会、韓国プロ野球選手協会承認)を04年から毎年発行し、取材成果や韓国球界とのつながりは日本の各球団や放送局でも反映されている。その活動範囲は番組出演、コーディネートと多岐に渡る。スポニチアネックスで連載、韓国では06年からスポーツ朝鮮で韓国語コラムを連載。ラジオ「室井昌也 ボクとあなたの好奇心」(FM那覇)出演中。新刊「沖縄のスーパー お買い物ガイドブック」。72年東京生まれ、日本大学芸術学部演劇学科中退。ストライク・ゾーン代表。KBOリーグ取材記者(スポーツ朝鮮所属)。

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