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福島からの証言・9(前半)

土井敏邦ジャーナリスト

っや

(鴨下祐也さん/撮影・土井敏邦)
(鴨下祐也さん/撮影・土井敏邦)

【鴨下祐也】(2014年6月24日/当時45歳)

〈概略〉いわき市の福島高専の教員だった鴨下裕也さんは、原発事故直後、妻と2人の息子と共に東京に避難した。しかし学校が授業再開を決め、鴨下さんは独り、いわき市に戻った。放射線の危険性を訴える鴨下さんは学校内で孤立。ストレスの多い職場、毎週、東京の家族の元に通う生活に心身ともに疲弊した。高速道路での車の横転事故、痩せて髪が抜けてくる夫に妻は、「生きてくれればいい。お金どうなってもいいから、仕事を辞めて!」と懇願した。1年半後、鴨下さんは仕事を辞め、東京の家族と合流した。

【避難】

 原発事故当時、福島県のいわき市で子ども二人と夫婦の4人暮らしでした。新興住宅地でしたが、自然が豊かで山も近くまで迫り、夜の星がきれいでした。

 第一原発から40キロぐらいです。福島高専(福島工業高等専門学校)の教員でした。東京からそれほど離れていないのに、こんないいところがあることに驚きました。

(Q・子どもにとっては、友達と離れることがきつかった?)

 二人の子どもたちに何が衝撃だったかよくわかりませんでしたが、避難したとき、上の子で小学2年生だった長男は、「とんでもないことが起こってる」という感覚は持っていたようです。私たちは原発が爆発してから家を出たのではなく、地震直後にぐちゃぐちゃになった道路を出ました。「行き着けないかもしれない。野宿になるかもしれない。最悪の場合、戻らなくてはならないかもしれない」くらいの状況でした。

(Q・最初、いわき市に来たとき、「原発に近くなる」という意識はありましたか?)

 原発立地県だという意識はありました。いわき市の北に行けば、第一、第二と並んでいるし、見学で中まで入ることもできます。研修、見学は小学校や中学校でも必ず行きます。勉強できるところであり、食事も出たり、好待遇でした。高専でも工場実習の重要な行き先が東京電力でした。原発へ見学に行って、「どれだけ原発が安全に配慮されているか」などプラスの面をきっちり勉強して、学校に戻ってきて、「こんなに安全に配慮している」と発表していました。

(Q・高専卒業生の就職先でもあったんですか?)

 原発というより、東電が就職先でした。福島から東電に入ると、原発関連に行く例がかなり多かったです。私の研究室の教え子も東電に入りました。事故前の数年間は、相当採用してくれていました。就職希望者が十数名ほどの時も、2人を採ってくれる年もありました。東電は同じ学校から複数の人数を採ることはあまり多くないんです。しかもうちの学科から2人を採用されました。ここ数年は特に多かったです。おそらく原発の増設を見込んでのことでしょう。

(Q・「東電さんのお陰」という雰囲気もあったんですか?)

 いわき市は東北で最大の工業都市で、「原発に依存している」というわけではないけど、東北の就職先として、東電のネームバリュー、信頼感はピカ一だったことは確かです。

【「原発が壊れる!」】

(Q・3・11はどういう状況でしたか?)

 私は学校で卒業、進級の判定会議の最中でした。話が終わる頃に地震が起こりました。長い揺れで、机がユサユサ揺れ、屋根材もきしんでぼろぼろ落ちてくる状態でした。

真っ先に心配したのは原発でした。これだけ揺れていると、どこか配管が割れては

いないかと心配でした。

(Q・以前から原発について知識があったんですか?)

 専門ではないけど、科学をやっている者として、私は「壊れないものなんかできるわけがない。捜査だって間違わない人はいない」と思っているので、原発が事故を起こさないというのは、そもそも無理だろうと考えていました。事故を起こしたら、とんでもないことが起こるわけだから、原発は使うべきではないと常々考えていたんです。

 ただ工学系の同僚は、「そうは言っても、あれだけ防護はしているのだから、そう簡単には壊れないよ」と言っていたんですが。

(鴨下裕也さん/撮影・土井敏邦)
(鴨下裕也さん/撮影・土井敏邦)

(Q・地震の後はどう動いたのですか?)

 揺れている時は、原発が動いているかどうかを気になっていました。少なくとも1基以上は動いているはずだからです。地震が止まらないと、数十分以内に危機的な状況になると思い、とにかく止まってくれ、制御棒入ってくれと祈る思いでした。家族はたぶん海辺には行っていないので、津波の被害は心配ではなかったですが、むしろ「原発が壊れる」という不安が現実味がありました。

 息子の友だちを車で家に送った帰りに、ラジオで、「第一、第二原発も放射能漏れはありませんが、念のため鼻や口を布で覆って避難してください」というアナウンスを聞いて、「ああ、これはちゃんと原子炉を冷やせなくなっているんだなあ」とわかりました。午後10時は過ぎていました。

 電気もない、ガスもない。家はオール電化にしていたので、氷点下2度のすごい寒い状態でした。その状態の家に老いた父を置いたままにできませんでした。

 それで家を出ようということになりました。ただ、地震で道路が破壊され、ひどい状態でした。どう考えても北には逃げられないし、西に行っても原発からたいして逃げられない。南への道路はひどい状態だったので山を越えるしかありませんでした。

 翌日12日の早朝、明るくなるまで待って、家を出ました。原発が異常だということはわかっていましたから。

(Q・それはどうやって知ったのですか? ラジオからの情報ですか?)

 ラジオからも追加の情報はありませんでした。携帯はほとんどだめ。携帯の通話よりもネットの繋がりがよかったです。

 車で49号線から白河市に向かい、国道4号線に出ました。父の実家の横浜市の保土ヶ谷に着いたのは13日の未明でした。

 原発が爆発したと聞いてからは、子どもたちの甲状腺を放射線から守るために、移動の途中、ヨウ素剤として「イソジン」を買いました。そのまま飲むのは辛いのでビタミンCと飲むと、だいぶマイルドな味になりました。

 その後、横浜の保土ヶ谷からは東京の実家に移動し、実家の近くにアパートを借りました。息子はその近くの小学校に転入させました。

【学校を辞める決意】

 一方、私の職場の福島高専では、4月初旬に学校再開に向けて会議を開くことになりました。水道や電気が復旧したし、校舎の一部が「避難所」になったけど、「学校として使えるようになる」という判断だったようです。それで私は独り、いわき市の家に独り戻りました。

 学校の会議では、私は「再開すべきではない。空間線量でも間違いなく『放射線管理区域』の基準以上のとてつもなく汚染している状態だし、放射性ヨウ素もある。再開するにしても、ヨウ素が1000分の1ほどになる80日ほど経るまで待つべきだ」と主張しました。しかし学校側は「文科省が安全だと言っているだから、『安全か危険か』の議論はもう止めよう」ということになり、結局、5月の連休明けに再開すると決まりました。

 その後、1ヵ月の間は家族が避難している東京と、職場のあるいわき市の間を行き来する日々でした。今思えば、あの期間はかなり放射性ヨウ素が残っていて、相当吸ったんだなと思います。当時使っていたマスクからは今でもセシウムが検出されます。

(Q・学校を辞めるきっかけは何だったんですか?)

 辞める理由はいろいろあるけど、その一つは体調が悪化したことです。放射能と関係があるか、私にはよくわかりません。放射線以外のストレスがかなり大きかったのはたしかです。担当していた寮で学生が亡くなったこともあったし、高速道路で横転したこともありました。タイヤがバースト(注・車のタイヤが走行中に急激に破損すること)するという事故を起こたんです。

 そもそも「家族が離れて暮らすことはよくない」と思っていたし、6月になっても放射線がかなり残っているという現実もありました。

 私は高専で、おいしい野菜を作る研究をしていたけど、当然、安全で、安心で、おいしい野菜を考えていました。しかし、その安全と安心が担保できなくなったのです。

水耕栽培なので、装置は完全に洗って除染し、屋上もきれいに除染すればセシウムに汚染されない野菜ができると期待していました。

 しかし冬になると、セシウムが乾いて空気中に舞い上がり量が増えます。また北風で原発から直接降り注ぎます。冬になると、相当なセシウムが空から降ってくるので、建物の中で作業をしない限り、セシウムのない野菜を作れないとわかりました。そこまで洗浄すれば、夏秋にはセシウムが検出されない野菜が採れるけど、通年で採れないことは私には衝撃でした。屋上を除染しても、1年もすれば元の状態に戻ってしまう。土は数万キロ/kgベクレルもあり、放射線廃棄物レベルです。それは安心できる食べ物ではないと私は思いました。

(鴨下祐也さん/撮影・土井敏邦)
(鴨下祐也さん/撮影・土井敏邦)

【生きてくれればいい】

(Q・高専を辞めるのを決意したのはいつ頃ですか?)

 原発事故が起きた年の冬です。体調不良で、しかも研究や仕事のことで悩んでいましたから。

〈妻・和美さん(仮名)〉

 帰ってくるたびに痩せて、やつれてくるんです。肌が荒れていくし、年寄りのような肌になってきて、髪の毛も半分ぐらいになっていました。見るからに、「この人だめになるなあ」と不安でした。

 とにかく「生きてくれればいいや」と思って、「もう仕事を辞めていいよ。お金どうなってもいいから、辞めて」と私は夫に懇願しました。生きていてほしいと思ったからです。夫の職場は終身雇用で、公務員扱いだから、勤めていてくれれば、家族の経済的な問題はよかったはずなんだけど、それを捨てても生きていてもらわなければと思ったんです。

 車の事故の時も、レッカー車で運んでもらって、夫は学校の1時間目の授業に出ましたが、私は何も知りませんでした。もう一回、救急車で運ばれることがあったけど、学校の先生から電話があって、「このままご主人をいわきの家に独り戻していいんですか?」と言われたんです。主人は福島に、私は東京で子どもたちを守る立場でした。私は何もできません。主人がこちらに戻ってくるまで、ずっとお酒を一滴も飲みませんでした。何かあって、私が車で現地へ走っていくために、酔っ払ってはいけないと思ったからです。そのように私もずっと張り詰めていました。

(Q・自分でもそのことに気づいていましたか?)

 風呂で髪を洗う時に、ずいぶん髪が抜けているなあとは感じていました。ストレスがかかっていたことはわかっていましたが、ほんとうにそれだけなのかは私にもわからなかったです。放射能はあったはずだし、被曝はしているけど、同時に「福島を復興させよう」「がんばろう」「放射能に負けてはいけない」というような感覚もありました。

 4月初旬にいわきに戻ったときに、山下俊一・長崎大学教授(当時)がいわき市やいろいろなところで、「100ミリまでは大丈夫」とか、「子どもは外で遊びなさい」とは発言し、ラジオでも何度も流されていました。それによって「安全プロパガンダ」を繰り返し垂れ流していました。それに「FMいわき」のアナウンサーが「今のいわき市の復興を妨げているのは、放射能を恐れる心です」というナレーションが入るんです。

 そういう地域で放射線の危険性を指摘すると、学校や外で有言、無言の圧力を感じ続けました。しかし私は安全だと考えていなかったので、その持論を曲げるわけにはいかないと思っていました。たとえそれが受け入れられないことであっても、科学的事実としては安全だとは言えず、むしろ危険だということを主張し続けていたんです。

 学校の中で危険性を主張し学校再開に反対した教員は1割ぐらいいました。私は「ちょっと神経質な先生だな。気にしすぎじゃないかあ」と思われているという感じがしていました。(続く)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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