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あなたの悩みを解消するもの

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

私は昼間は大人を対象に心理コーチングをし、夜は高校生を相手に国語と小論文を教えています。今年も受験生を8人見ています。毎年、心理学科を希望する生徒が多く、彼ら彼女らは志望大学において心理学科だけ倍率が高いとぼやきます。そういった傾向がここ何年も続いています。

思えば、私が高校生の頃も(30年前!)、なんらか生きづらさを感じているMさんは心理学科に進学したいと言っていたなあ。自分の生きづらさの正体を突き止めたい。彼女はそう言ってたなあ。

しかし、これは今夏、実際に生徒から聞いた話ですが、オープンキャンパスにおいて、心理学を希望する高校生たちに大学の先生はハッキリ言うそうです。「心理学は科学であり、モヤモヤを解消するための学問ではありません」と。入学後、ガッカリして中退する学生が毎年いるのかもしれません。

私もその先生と同じ意見です。心理学は科学たろうとした結果、実験科学や統計学になったのでした。では、モヤモヤは何が解消してくれるのでしょうか。

モヤモヤを解消するもの

哲学です。心理学はたとえば、「なんか不安な時は『今ここ』に集中しよう」と言います。私は自慢ではありませんが、小学生の頃から「なんか不安」でしたから、心理学の本を何冊も読んできましたが、心理学って無理難題を言うなあと思ったものです。しかも、今ここに集中できないというのは、なんか不安のただの言い換え表現でしかないはずです。

いや、だから先の大学の先生は「心理学は科学であってモヤモヤを解消するための学問ではありません」と先に「宣言」したのだろうと思います。

科学で割り切れないところにモヤモヤの正体はあります。認知行動療法で我が思考とふるまいを矯正しても矯正され得なかったところに、真の「課題」があります。哲学はそこから始まります。

たとえば、キルケゴールは反復という概念をいたく愛したようですが、反復とは「どう努力してもつねに『こう』なってしまうのはなぜか」という彼の人生における問いから発生したと私は理解しています。愛する彼女に「好き」と言い、彼女が満足することをやれば彼女も自分のことを愛してくれる。そんなこと百も承知だ。しかし、彼女のことを思うといつも、なぜか、「好き」という言葉ではなく妙な理屈を言ってしまう。しかもそれは便箋1枚ではなく10枚でも20枚でも何枚でも続く壮大な理屈になってしまう。嗚呼。終生レギーネを愛してやまなかったキルケゴールの悩みとは、例えばそういうものでした。

あなたと同じです。あなたとて、精一杯努力しても「なぜか」「こう」にしかならないからモヤモヤ悩んでおられるのですよね?

科学は「こうすれば、ああなる」というふうに言葉で割り切りますから、わかりやすい。しかも私たちはなぜか、因果関係をすっと受け入れる脳のクセを持っていますから、信じやすい。だから、ウツっぽいと早起きしてセロトニンを出せばいいんでしょ、という人が現れる。たしかにそれは間違いではないのだろうと思います。しかし、セロトニンを出しても解決されない問題こそが、あなたの人生における真の問題であるはずです。先のキルケゴールのように。

ある種の哲学は人間洞察に資する学問です。哲学は使えないし使おうとすべきではないと専門家たちは言います。無論、生活に役立たない哲学もあるのでしょう(あるように思います)。しかし、人間洞察に資する哲学の中には、それをやった人の生活から問いが立ち上がっているものがあります。たとえばキルケゴール。たとえば(私が知っている範囲における)ニーチェ。

哲学によって得た人間洞察能力はよりよく生きることに役立つし、役立ててもいいのではないかと私は思います。産学連携の時代ですし。(ひとみしょう/哲学者)

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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