日本で裁量労働制が根付かないワケ
国会で働き方改革をめぐる議論が続いていますが、とりあえず裁量労働制の拡大については野党側の根強い反対によりいったん見送られることになりました。
ただ、そのやり取りがあまりにも低レベルで本質的な議論がまったくなされておらず、たんなる足の引っ張り合いに終始しています。そもそも「役人の作った資料が間違っていた、責任取れ」という理論が成り立つのであれば資料を作らせた民主党政権にも責任はあるわけで単なる泥仕合です。
というより公務員に「わざと非協力的な態度をとることで倒閣できるパワーを認める」というのは、組閣に協力しないことで気に入らない内閣を辞職に追い込んだかつての帝國陸軍そのものなんですが、野党の側にそういう自覚はあるのでしょうか。
同時に大手メディアの論調も見当違いなものがほとんどで、有権者の間でも議論が深まる気配はありません。というわけで、今回は裁量労働制度のめぐる議論はなぜ迷走しているのか。本来何が議論されるべきなのかをまとめておきましょう。
裁量労働制度が日本で馴染みにくいワケ
諸外国のホワイトカラーの間では一般的な裁量労働ですが、日本では一部の職に限定され、その職種においてもあまり良い評判は聞きません(だから野党サイドが反対するのも一理あるとは思います)。
なぜか。それは、日本のサラリーマンには“裁量”がほとんどないからです。たとえば「今日は暇なので午後から出社しますね」と課長にメールを打って出社できる人なんているでしょうか。「自分の業務はテキパキ終わらせたのでデートもあるし定時に帰りますね」と言える人なんているでしょうか。恐らく「みんな席で頑張ってるんだからお前も何か手伝え!」と説教されるのは確実でしょう。
ではなぜ日本のサラリーマンには裁量がないのでしょうか。それは日本の独特の賃金制度が原因です。他国で一般的な職務給というのは担当する職務に値札が付くもので、当然ながら入社時に詳細な業務範囲、内容を契約書で交わします。要するにゴールがはっきりしているわけです。
一方の日本では職能給という個人の年功に値札が付く賃金が一般的で、入社して配属されるまでなにをやらされるのかわからない、配属されても明確な業務範囲がなく、とりあえず大部屋で机を並べてみんなで一緒に仕事をする中で評価される、というスタイルが一般的です。「遅くまで残業している人が評価されやすい」や「みんな残業してるんだからお前もやれ」といった空気はすべてここに根っこがあるわけです。
こういう状況で「これからは裁量を発揮して自由にやってくれ」と言われても、普通のサラリーマンは困惑するだけでしょう。ゴールが見えない以上は当然のことです。
よくリベラルの人たちが口にする「裁量労働制は定額使い放題だ」という批判も実は間違いではなく、業務範囲が曖昧で裁量の無いまま導入してしまうと、自分の担当業務が終わってもどんどん新しい仕事を押し付けられるという現象は確かに起こりえます。本来の裁量労働というのは事前に担当業務の範囲を明確化した上で行うものなので“使い放題”はありえないはずですが、現状ではそうした穴は確かに存在するということです。
ちなみに筆者はねちねちと裁量労働制度の対象職種をつつきあうよりも「大卒のホワイトカラーは全員裁量労働制で働き、時間ではなく成果で評価されるべき」というスタンスですが、それには業務範囲を明確にして裁量もセットで配ることが条件だと昔から考えています。
上記のような論点を踏まえれば、国会での議論がいかに空疎なものであったかは明らかでしょう。
残業時間の長短ではなく、政府は「日本型雇用によって我が国がいかに長時間残業で低生産性かつ“Karoshi”が英単語になるほど劣悪な労働環境になってきたか」を述べ、それを変えるためにこそ脱時間給の改革が不可欠なことを正面から打ち出すべきでしょう。また、野党サイドは「そもそも日本のサラリーマンには裁量が無い現実」を指摘し、いかにして裁量を付与するかを追求すべきでしょう。
その点について膝をつめて議論すれば、実は政府、野党双方にそれほどの立場の違いはなく、十分に実現可能な落としどころを見つけられるはずだというのが筆者のスタンスです。