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小田原征伐のとき、豊臣秀吉が攻略法を諸将に尋ねた。3人の武将の答えとは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
小田原城。(写真:イメージマート)

 社長が決断で苦しんでいるとき、信頼できる部下に相談するのは珍しいことではない。豊臣秀吉は天正18年(1590)の小田原征伐の際、攻略法を諸将に尋ね、3人の武将から回答を得た。その答えとはいかに?

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 豊臣秀吉は小田原城を攻囲したが、北条軍の士気は下がらなかった。秀吉は総攻撃を検討したが、味方から死傷者が多数出るのを恐れ、3人の武将に対して、年内に城が落ちなければ、一度上方に戻り、翌年改めて攻撃すべきかを尋ねた。

◎太田資正の答え

 資正は、「小田原城は堅城で兵糧も潤沢ですが、北条軍は北条氏政・氏直父子に嫌気がさしています。この機会に調略をすべきなのに、秀吉様が上方に戻るというはよろしくなく、力攻めをしても城は落ちないでしょう」と述べた。

 この言葉を聞いた秀吉は、資正が一度北条軍に敗北し、そのとき罹った臆病の病が治っていないと激怒し、ただちに下がるように命じた。資正の消極的な意見にがっかりしたのだろう。

◎佐竹義久の答え

 義久は、「秀吉様が小田原城を落とさないまま上方に戻ると、人々は臆病だと思うでしょう。私に3分の1ほど豊臣軍の兵を与えてもらえたら、すぐに小田原城を落としてみせます」と述べた。

 義久の勇ましい言葉を心強く思った秀吉は、自分が過去に城攻めの経験があるので、小田原城を落とすことは容易だが、義久の意見が聞けて良かったと述べ、褒美を与えたのである。

◎直江兼続の答え

 兼続は、「小田原城は大軍が籠っているので、10日くらいでは落とせないでしょう。しかし、北条氏政は父の氏康より器量が劣り、しかも小田原城以外の支城は続々と落城しています。有能な家臣もいません。北条方は大軍とはいっても、豊臣軍より小勢なので、少し待って攻撃すれば小田原城は落ちるでしょう」と述べた。

 兼続の言葉を聞いた秀吉は感心し、褒美を与えた。この逸話は、弱気よりも強気のほうが良いが、より分析力のある兼続が評価されたということになろう。

 以上の逸話は『武林名誉録』に書かれたもので、史実としては認めがたい。武将の器量をうかがい知ることができる創作と考えてよいだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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