ウエストランドの悪口漫才は時代を逆行しているのか?
「『M-1』もウザい!『アナザーストーリー』がウザい! いらないんだよ!泣きながらお母さんに電話するな!観てらんないから!」
『M-1グランプリ2022』(朝日放送・テレビ朝日)で優勝したウエストランドが、最終決戦の漫才で披露したこのフレーズにより、今夜放送される『M-1 アナザーストーリー』(同局)は俄然注目されることとなった。
『M-1 アナザーストーリー』は歴代大会の膨大な密着ライブラリーの中から抽出して優勝者を中心としたファイナリストたちを描くドキュメンタリー。2018年から毎年制作され、2018年は関西ローカルの放送ながらギャラクシー賞月間賞を受賞、2020年からは全国ネットで放送されるようになった。
果たして、井口は泣きながら親に電話をするのか、ウエストランドの「裏側」を描いた感動の人間ドラマになっているのか、楽しみでならない。
「お笑いに分析に必要ない」
そんなウエストランドが今回披露した漫才は「誰も傷つけない笑い」のアンチテーゼなどと評されることが多い。なるほど、「あるなしクイズ」を題材にしながら、様々な人や物に毒を撒き散らすフォーマットだ。
例えば、河本が「スポーツ観戦にはあるけどお笑い観覧にはない」と言うと、井口は遮るようにして「正解」を回答していく。
この「お笑いを分析するな」的な主張は、この漫才での井口に限らず、芸人や番組の作り手、果てはお笑いファンからもよく聞かれる言説だ。だがその一方で、時に客のレベルが低くて…云々と嘆いたり、時に他ジャンルの批評はしたりもする。お笑いだけが批評や分析を拒否することを「是」とするのは何とも不思議だ(もちろん芸人本人はそんなこと百も承知でハードルを下げて笑いやすい空気を作るために言っているのだろうが)。
芸人の多くは、自分の思想や考え方よりも、今もっとも観客にウケやすい言動を選択する。従ってネタ中の発言がその人の考えと一致するとは限らない。だがそれゆえ、お笑いという表現は世間の「今の気分」がもっとも反映されるジャンルのひとつだともいえる。本人が意識・意図しているか否かは別にしてお笑いとは本質的に批評的なものだ。だから(それがたとえ「野暮」だとしても)批評や分析から逃れることはできない。
「小市民怒涛の叫び」
ウエストランドの今回の漫才は、前述のとおり「あるなしクイズってあるでしょ?」という河本の一言から始まり、河本が「あるなしクイズ」を出題するという体裁を取っている。最初に標的にされたのは「恋愛映画」だった。
井口が言っている恋愛映画に対する悪口、悪態は、ちょっと(いや、かなり)浅くて薄っぺらい。本人の言葉を借りれば「皆目見当違い」。しかも手垢のつきまくった批判だ。
つまりこの漫才の面白さのひとつは、無知で偏見まみれの男が、相手の制止を振り切りながら、自信満々におかしな言説を繰り返し、さらに極端な結論まで達する異常性にある。
「YouTuberにあるけどタレントにはない」への井口のまくし立てがわかりやすいだろう。
この漫才が優れているのは、井口の悪口にそのまま共感し痛快だと笑う層から、井口の毒を「無知な男の偏見」と捉え、その畳み掛け方、口ぶりの異常性を笑う層、あるいは偏見や悪態が溢れて止まらなくなってしまう、自分の中にも存在する人間の“業”を見出して笑う層まで、見る人によって様々な角度からの笑い方ができることだ。その大きな要因として井口の「小市民」的キャラクターをいかした異様なまでの熱量があるだろう。彼の気迫に観客は巻き込まれていくのだ。ウエストランドの漫才にあって、他の毒舌漫才にないのは、井口の人間味だ。
彼らの優勝を後押ししたもののひとつに、「傷つけない笑い」が窮屈だという“気分”が少なからずあったことは事実だろう。しかし、単に悪口を並べただけの笑いが受け入れられたわけではないということは、留意しておかなければならないはずだ。
そんな皆目見当違いかもしれない思考をめぐらせたくなる漫才だった。