2011年3月11日、学期最後の朝会で校長が子どもたちに贈った言葉は現実になった
5年前の東日本大震災で学区が被災したことをきっかけに入学する児童の数が激減し、2015年度末で閉校となった宮城県石巻市立門脇小学校で、当時の鈴木洋子校長が朝礼で子どもたちに贈った言葉がある。「桃花笑春風」。この言葉を贈られた最後の学年、当時の1年生たちは、来週小学校を卒業する。私自身、発災から3週間後に鈴木元校長に取材し、人々が去った後も春は巡ってくるという意味のその言葉を、かみしめながら石巻での取材を続けてきた。その後上梓した書籍『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』(池上正樹著、ポプラ社)より、筆者が執筆協力した内容の一部を抜粋して掲載する。
◇◇◇
卒業生たちの名前が順番に呼びだされ、ひとりひとり「はい!」と答える大きな声が聞こえる。
4月15日、石巻市立門脇中学校3階にある満員の小さな視聴覚室。保護者や教職員、数多くのメディアが見守る中、門脇小学校の卒業式が行われていた。
つい前の日まで避難所として使われていたこの部屋には、主役たちが座る椅子もない。床のオレンジ色のシートに全員が体育座り、という手作りのハレの日だ。
卒業生は、男子23人、女子27人の計50人。ひとりひとりに、校長の祝福が繰り返されていく。校長は、すべての瞬間をかみしめるように名前を読み上げ、子どもたちの成長を確かめるように証書を手渡していた。
あの3月11日の震災以来、離れ離れになっていた6年生が初めて集えたのが、この約ひと月遅れの卒業の日だった。
門脇小学校の全児童300人のうち、死者または行方不明は計7人(取材当時)。このうち、6年生は、ひとりの児童の行方がまだ確認できていなかった。
皆、震災後の混乱で卒業式はできないものと、一度はあきらめていた。この日、県外に避難していた子どもたちの多くが参加し、それぞれに様々な思いを抱えて集まっていた。
大津波警報に、ただ事ではないと感じて日和山へ
3月11日は、学期の最後の朝会があった。3月中旬になっても、雪が降る寒い日が続いていた。しかし、季節も、学校の暦も、確実に春を迎えていた。
鈴木校長は、朝会に寄せて、子どもたちにある言葉を贈った。
『桃花笑春風(とうかしゅんっぷうにえむ)』
人々が去っていった後でも、春は自然に巡ってくるんだよ、という意味の漢詩だ。
「転じて、つらこと、苦しいことは、あなたたちが生きる上で、たくさん押し寄せてくるだろうけども、一生懸命生きていれば、春は来るんだからね、という意味なんです。今年3月いっぱいで定年退職する、校長からの最後のメッセージとして、この言葉を贈ったんです」
何気なく子供たちに贈った漢詩が、その後、これほど現実味を帯びることになろうとは、このとき誰が予想しただろう。
年度末の慌ただしさを除けば、その日もいつもと同じ、金曜日の午後の時間が、ゆったりと流れていくはずだった。
そして――、午後2時46分。地震は起きた。
当時、鈴木校長は、校長室にいた。
揺れが強く、あまりにも長い。しかも、だんだんと揺れが強くなっている。
過去に経験した宮城県沖地震に比べて、この揺れの強さでは、校舎がかなり危険だと直感した。
揺れが収まる前に職員室へ行き、校庭に集まるよう、第1次避難の指示を出した。移動する子どもたちがパニックを起こさないよう、階段の脇に立って見守った。
昼ごろまでは晴れて日差しがあったのに、昼すぎになって、どんよりとした雲に覆われていた。冷たい雨が降り始め、やがてそれが雪に変わった。
少しだけ上がりかけていた気温が、この1時間ほどの間に、急激に下がり始めていた。
着の身着のままで校庭に避難した子どもたちにとっては、あまりにも寒い日だった。
「体育館へでも移動しようか…」
そう教員同士で相談していたとき、大津波警報が出た。
鈴木校長は、やはりこれは、ただ事ではないと感じた。そこで、そのまま第2次避難という形にして、校舎の裏側の高台になっている日和山に避難することにした。
門脇小学校の校舎は、標高56.4メートルの日和山という低山を背に建っている。校舎の西側の階段を登れば、同校の学区である門脇町や南浜町、石巻の港が一望できる崖の上まで、すぐにたどり着ける。
静かに。速やかに。あまりの揺れの大きさに動揺し、泣いている子どももいたが、それでも皆、日頃からの訓練通りに避難を開始した。
実は、この2日前の3月10日の昼前にも、三陸沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生。宮城県北部で震度5弱を観測する強い揺れがあった。
この時、津波注意報が解除される前に授業を再開してしまったクラスがあり、「指示を聞かないということは、命を守れない事になる」と改めて防災体制を徹底したばかりだ。「そのときのことが、結果的に訓練になっていた」と校長はいう。
とくに、避難の時は「絶対しゃべらない」ということを徹底してきた。いざというときに、「放送が聞こえず、指示の通らない状態にはしない」という指導が生きたのだ。
ともかく、当時、学校に残っていた生徒は全員、早くに避難させることができた。
「門脇小学校に来たときから、地震と津波のことは、常々意識していました。海辺にある学校であるということに加えて、30年以内に宮城県沖地震が発生する確率が90%以上ということが言われていましたので、その時には、どのように対応すべきか。ずっと備えてきたのです」
とはいえ、それだけの準備が十分できていたことが、その後、学校に押し寄せる悪夢から、子どもたちを守ることにつながったのだ。
ブルーシートで震える子どもたちを守った
日和山に着いてから、津波の第1波は、まもなくやってきた。地震が発生してから、45分ほどが経過していた。
「どーん! という音がして、海に目を向けると、石巻湾の海辺にある『濡仏』の辺りから、波が道路に流れ込んでくるのが見えました。石巻市立病院と石巻文化センターの通りの辺りで、波がダーっと広がって、ドン! と、一直線に来たんですね。そして、南浜町の住宅の屋根が、フッ、フッ、フッと浮くんですよ。びっくりしました。そのうちに、渦を巻くような形で家屋が道路に流れてきて、道を走っている車にも波が来てしまったのを見ました。津波を目の当たりにしたのは初めてでした」
そして、津波は、校舎にまで押し寄せた。
校舎には、避難してきた近隣の住民に対応するために、教頭、教務主任、用務員、新任の教師の4人が残っていた。
「4人は、どうしただろう、と思いました。これはもしかすると、波に飲まれてしまったんではないか。彼らを死なせてしまったのではないかと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
実は、海辺にある門脇小学校は元々、津波の警報が発表された際の避難所には指定されていない。それでも、付近の住民は、学校に次々と避難してくる。
山の階段を登るのが困難という高齢者は多い。地元の自主防災組織でも、「他の災害は門小でもいいのに、津波の時だけ避難できないというのはかえってややこしい。波が来たら3階まで逃げられるし、裏には日和山がある」と、ひとくくりに門脇小学校を避難場所に選んでいたという。
また、地域の中では「門脇小学校までは津波が来ない」という一説もあった。約50年前の1960年のチリ沖地震による津波の被害は、北上川の沿岸部だけだったからだ。
学区にあたる門脇町や南浜町の住民たちの間では、津波に対する認識が、その時の記憶を超えることはなかったのだ。
「学校まで来ない」という話を裏付けるかのように、約1年前の2月29日に、チリ中部地震による津波があった。日本にたどりついた津波は、牡鹿半島にある鮎川検潮所で50cm〜60cmほどの潮位を観測したが、大きな人的被害は出なかった。そのことが今回、災いしたのかもしれない。
町に流れ込んだ津波が、学校にたどり着くまでの時間は、あっという間だった。校舎は1階天井付近まで水没した。
「日和山にまで波が押し寄せてくるのではないか」
鈴木校長は、そんな錯覚すら抱いた。
日和山の一番高い部分にある鹿島御児神社まで、子どもたちを連れて逃げざるを得なかった。子どもたちを神社の建物の中に避難させようとしたら、宮司から「耐震工事をしていないですよ」といわれた。それでも、あまりに寒いので、神社の中に入れてもらった。しかし、余震が来ると、子どもたちは恐怖のあまり、神社を飛び出した。
学校から避難する際に、職員がブルーシートを持ってきていた。そのブルーシートは、寒さに震える子どもたちを風と雪から守るのに役立った。また、そのシートの中にいたために、子どもたちは自分たちの町や家が津波に飲み込まれる光景を見ずに済んだ。
一方、別の職員は、とっさに学校から名簿を持ち出していた。そのため、学校側は、日和山に駆けつけた保護者に、子どもたちを引き渡す手続きがスムーズに行うことができた。これも、日頃の訓練の賜物だった。
最終的に、40人ほどの児童の保護者は、迎えに来ることができなかった。学校で対応に追われていた教頭以下4人の職員も、無事に学校を脱出。鈴木校長たちと合流して、全部で60人あまりの集団となった。
そこで、どこの避難所に身を寄せようかという問題になった。どこの避難所にも、すでに避難民がいっぱいいて、これだけの集団になると、受け入れてもらえないのだ。
石巻市立女子校にも門脇中学校にも、避難してきた人たちがあふれていた。一行がようやく宮城県立石巻高校の会議室に落ち着いた頃には、すっかり夜になっていた。
火が津波とともに流れてきた
海沿いの南浜町や門脇町は、地震直後から高台へ避難する車で渋滞が起きていた。門脇小学校の校庭にも、大津波警報をうけて避難してきた人々の車がたくさん止まっていた。
押し寄せた津波は、校舎の正面にそれらの車をぐしゃぐしゃに押しつけ、積み上げた。車に乗ったままの人も大勢いた。
町のあちらこちらからは、漏れ出た油がスパークによって引火したのか、火の手が上がっていた。
火が津波と共に流れてきた。押し寄せる波の直前に、門脇小学校に逃げ込み、屋上から様子を目撃した人の証言によると、学校の東側の出入り口付近からも火の手が上がった。町とともに、門脇小学校の校舎は炎上した。
「移動しているときにね、南浜町と門脇町のほうから、火の手が上がっているのが見えたんです。赤くなっていて、ああ、燃えているんだなと思ったら、悲しい気持ちになりました」
石高からみた空は、赤々となって、本当に恐ろしかったという。
「地獄絵でした。原爆が落ちたときってこういうのだったのかな、という話を皆でしていました」
午後9時過ぎになって、教育委員会の車が様子を見に来たので、一緒に市役所にある教育委員会に向かった。午後10時過ぎに戻ろうとすると、市役所周辺の水深が増して、膝の高さほどになっていた。「満潮だからではないか」と予想し、その日は、教育委員会に泊まることにした。
ところが、翌日に水が引くどころか、腰辺りの深さになっていた。地盤沈下か、後から何波も押し寄せた津波のせいかもしれない、などと考えた。
黒焦げの校長室の金庫から出てきた卒業証書
震災から4,5日後の3月15日頃、教頭と一緒に、黒焦げの校舎に入った。
中でも、1階の校長室は、ものすごく焼けていた。真ん中の廊下沿いの壁は、すべて丸焦げ状態。校長が執務していた机の脇は、ガラスが破れていた。
校庭には幾重にも重なった車があった。それらはすべてが焼けて、テレビでしか見ないような惨状が広がっていた。
校長が気がかりだったのは、金庫だ。金庫の中には、137年の歴史を物語る学校沿革史などの書類と、歴代の校長やPTAの書類、間近に迫った卒業証書などが入っているはずだった。
「金庫は、校長室でなぎ倒されていました。ものすごい重たい物なので、波の力がもすごかったのだろうと実感しました。ただ、学校の財産とも言える、歴史ある書類を燃やしてしまったのではないかと、大変申し訳ない気持ちでいっぱいでした」
あの日、混乱の中にあって、教頭は金庫のカギをきちんと持ち出していた。しかし、カギがあっても、倒れた金庫をどうすることもできず、後日、教育委員会に開けてもらうことにした。
しかし、教育委員会はなかなか対応してくれない。4度目の要請によって、ようやく金庫を開けてもらえることになった。3月30日、校長が定年退職する日の前日だった。教頭と、残った職員全員で金庫の中身を取りにでかけた。
「金庫をバーナーで焼き切っていただいて、見たらですね、6年の担任が『証書がある』っていうんです。他の書類は、濡れていたりしたんですが、包装紙にくるまれてあった卒業証書だけは、水にも濡れずに、本当に見事に美しい状態で出てきたんです」
証書を守っていたのは、コピー用紙などの包装にも使われるワンプだ。湿気を防止するために裏側が防水仕様になっている紙であったことが幸いした。沿革史も無事だった。
「私としては、沿革史が残ったことも、うれしかったです。明治6年からの歴史ある学校の財産。私の代で何も残さずに終わってしまうかもしれない、ということが非常に辛かったですね。沿革史があれば、また歴史を足していけますからね。これは、子どもたちの希望の確かな証になると思いました」
学校沿革史には、その年度に行った教育活動が書き綴られている。
鈴木校長は、こう語る。
「教育活動をきちんと記した物を受け継ぐってことが伝統・歴史になる。団結力のある門脇町や南浜町の人たちと一緒になって作ってきた門脇小学校の歴史ですから、今回の地震もその中に記されて、次につながっていくと思うんです」
巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな
全員分の卒業証書の授与を終えて、鈴木校長が最後の挨拶を始めた。
「ひと月遅れになりましたが、多くのみな様のご厚情とご配慮によって、ここ門脇中学校を会場に、平成22年度石巻市立門脇小学校の卒業式が行われますこと、心より感謝申し上げます」
校長の声は震え気味で、少し涙ぐんでいるようにも見える。
「いま、巣立ちゆくみなさん1人1人に、卒業証書を手渡しました。この卒業証書は、6年間の小学校の学業を修めたという証です。卒業証書を受け取るときのみなさん、真っ直ぐな視線、堂々とした態度に、大震災を乗り越えようとする強さとたくましさが感じられます。悲しいことに、まだ行方不明の○○君、また、震災後、石巻の地を離れ、新しい土地で、新学期を迎える子どもたちに、この卒業証書を直接渡すことができなかったことが、残念でなりません。
あの尋常ならざる強い揺れの中。あなたたちは、校庭へ一時避難。無事、全員の点呼確認が終わるやいなや、大津波警報の知らせに、そのまま日和山へ。鈍色の雲が低く垂れ込め、けたたましく緊急事態を告げるサイレンの音、雪がことなげに吹き付ける悪条件が加わるという不穏な雰囲気の中、あなたたちは、地域のお年寄りや、小さな子どもたちの手を引きながら、落ち着いた足取りで避難したのでした。
日和山へたどり着いても、寒さに震える下級生を守ろうと、教頭先生から渡されたブルーシートの端を持ち、待ち続けたのでした。非常時において、あのように思いやりの行動が取れるということは、大変すばらしいことだと感心させられました。きっと下級生や、地域の方の心にも、残ることでしょう。
日和山から望む私たちの街は、本当に美しい街でした。学区の東側を流れる北上川は、日和大橋からゆったりと太平洋に注ぎ、揚々と臨みを抱かせる海に面した山は、石巻の顔であり、私たちの自慢の風景でした。
それが、あの日、大海原は、川を変え、牙をむき出し、一瞬のうちに、私たちの街を呑み込んでしまったのです。そして、がれきの山と化してしまったのです。
すさまじい光景。惨状。自然の脅威に、語るべき言葉を失ってしまいました。私たちの校舎も、大破、炎上しました。燃え尽くされ、黒焦げになってしまった校長室。その中で、堅牢な耐火金庫のみ、なぎ倒され、残っていました。みなさんが、いま手にした卒業証書は、その中にあったんです。まさに、奇跡といえるのではないでしょうか。
この卒業証書は、みなさんのこれまでの努力と、頑張ってきた姿を、しっかりと認め、励ますために、生きていたのだと思います。希望の確かな証である、この卒業証書を手にしたみなさん、これから歩みゆく道は、険しく、厳しいものであろうとも、それを切り抜くエネルギーを持ち、強く生きてください。そのことを切に望みます。多くの人たちが、支えてくださっているのですから。
保護者のみなさん、子どもたちは、感謝の気持ちを込めて、思い出の残る最高の式にしたいという願いを持って、前進を重ねてまいりました。そのすべてをお見せすることができない形で、このような卒業式になったことをお許しください。しかしながら、私はこの卒業生の姿に、いまなお、黒く焼け焦げた校舎の屋上で、燦然と輝いている『すこやかに育て、心と体』。門小が目指してきた子ども像です。子どもたちのこの成長ぶりこそ、これまで『子育ては共に』を合言葉に、学校、家庭、地域がともに手を携え、愛しみ、育ててきた、何よりの財産なのではないでしょうか。
1000年に1度という大津波に遭遇し、愛する街、愛する人、思い出いっぱいの学びの校舎は、失われてしまいましたが、子どもたちを愛しみ、育ててきた営みは、137年の歴史と伝統をもつ門小の1ページ、確かな歩みとして、刻まれることと確信しています。
未曾有の災害の中で、重ねた命です。厳しくも前途多難な子育てになると思いますが、子どもたちがそれぞれの道で、春を迎えることができるよう、親として、大人としての務めを果たそうではありませんか。
『桃花笑春風(とうかしゅんぷうにえむ)』。この言葉は、奇しくも3月11日の朝会で、子どもたちに贈った言葉です。困難を乗り越え、強く生き抜くことを祈念してやみません。
巣立ちゆく 被災の子らに 桜かな。卒業、おめでとう! ひと月遅れの卯月の卒業式」
古(いにしえ)からつながる学区が一瞬にして消えた
門脇小学校は、新学期からは門脇中学校を間借りして、再スタートした。ただ、鈴木校長は、これから先の門脇小学校の話に触れると、一瞬、表情を曇らせる。
子どもたちの8割、あるいは9割が、壊滅状態となった地域に住んでいたため、家を失っているからだ。門脇町、南浜町、南光町、日和が丘にまたがる学区は、ほぼ消滅したといっていい。
「これからのことを考えますと、胸が痛みますね。避難所で生活していたり、他の学区へ転居したり、皆、ばらばらです。ありがたいことに、また門小に入れたいというお話しはとても多いんですが、無理して通わせるようなことはせず、生活基盤が整ってから戻ってきてもいいんじゃないかなと思っています。いまの間借りの状況では、ひと学年につき、1教室しかありません。今後の人数は読めないのです」
壊滅的な被害を受けた海沿いの南浜町と門脇町の再興は、「人が住まない地域」を前提として進められていくことが予想される。住民からも、ここに住み続けたいという意見はほとんどいないようだ。津波は、住み慣れた土地から離れても仕方がないと思わせるほどの爪痕を残した。
「門小で起きたことは、しっかり伝えていく義務があると思います。あの大変な状況の中で子どもたちと職員がとった行動は、よくやってくれたものだと思っています。これからの学校災害時の対応として、ひとつでも役に立つものと言えるのではないでしょうか」
地域の人たちが心配して駆けつけてくる。遠くの岐阜県にある各務原市立那加第三小学校からは、ランドセルが送られてきた。様々な方面からの見舞いや励ましに、大変勇気づけられたという。
心残りは、いまも行方の分からない数名の児童のことだ。6年生には、地震後、母親が迎えに来て帰宅した児童がひとりいた。しかし、震災後ひと月近く経っていた取材時も、母娘ともに見つからないままだった。
「一緒に逃げましょうって、いまにして思えば、なんであの時強く言わなかったんだろうって……やっぱり顔が浮かびますね。その子どもにも卒業証書を手渡したかったな、いまどこにいるんだろうなって」
鈴木校長は、小さく声を落とした。
門脇小学校の校歌は、こんな歌い出しで始まる。
≪「太平洋は ひろびろと 望みをきょうも 思わせる」≫
≪「北上川は 生きていて 命を深く 思わせる」
そんな日和山からの素晴らしい眺めが、がれきの山に変貌した景色を見るのは、とてもつらい。
「日和山から見た北上川。そして、揚々と流れる太平洋。学校の3階からも見えました。石巻の中でも本当に、すごく好きな景観だったんです。そんな風光明媚な所にあって、そこに、古からつながる学区というのが、私の自慢でね。そういうところで自慢の子どもたちを育ててきたって言う思いはあったんです」
あの日を境に、古からつながる学区は、一瞬にして消えてしまった。
「いまでも信じられないですね、夢であって欲しい」
そういって涙ぐんだ。
【2011年5月下旬に緊急出版した書籍『ふたたび、ここから 東日本大震災石巻の人たちの50日間』(池上正樹著、ポプラ社)より、筆者が執筆協力した内容の一部を抜粋し、当時の情報のまま掲載しています】