言語教育研究にもっと批判的研究の視点を
『英語教育』(大修館書店)7月号の英語教育時評に「今後の日本の英語教育研究」というコラムを寄稿しました。1ヶ月が経過したので下書きを転載します。
タイトルは抽象的ですが、要は、「言語教育研究にもっと批判的研究の視点を!」という話です(このYahoo!記事のタイトルもこちらにしました)。
そういえば、つい先日、批判的言語教育(業界内では「批判的応用言語学」と呼ばれます)について歴史上はじめての新書である、久保田竜子著『英語教育幻想』(ちくま新書)が発売されました。偶然ですが、このコラムはなかなかタイムリーだったわけです。
今後の日本の英語教育研究
先日、アメリカ応用言語学会に参加してきた。とても刺激的で、日本の英語教育研究のあり方についても深く考えざるを得なかった。今回はこの点を論じたい。
本題に入る前に、応用言語学と英語教育研究の位置づけを簡単に確認しておく。当然ながら、両者は同一ではない。ただ、応用言語学の主要なテーマのひとつに、第二言語の習得・学習・教育があることは間違いない。そして、第二言語教育のうち日本で最も制度化が進んでいるのが英語教育であることもまた議論の余地はない。以上の点で、応用言語学と日本の英語教育研究はかなり近接した位置にいる。ついでに言うと、日本には「応用言語学」を学会名に冠する学会はない。日本から国際応用言語学会 (Association Internationale de Linguistique Appliquee: AILA) に加盟しているのが、大学英語教育学会である。この事実から見ても、応用言語学と英語教育はしばしば同義語として使われている。
アメリカ応用言語学会の話に戻ろう。学会中は、私自身の専門分野でもある英語教育に関する研究発表を中心に見て回った。そこであらためて実感したのが、英語教育を政治経済やイデオロギーの観点から検討する研究がいかに多いかという点である。しかも単に数が多いだけでなく、研究領域の一つとしてきちんと認識されてもいる。たとえば、全部で19ある小部会の一つに「言語とイデオロギー」部会がある。また、これ以外の部会(例、「言語政策/管理」部会)でも政治経済やイデオロギーをめぐる議論は行われている。
この手の研究発表は日本でほとんど行われていないことは周知の通りである。日本の場合、そのほとんどが、教材や指導法、カリキュラムの紹介、そして言語習得といった非・社会科学的な研究である。海外の政策に関する報告もないことはないが、多くが「授業参観」の域を越えておらず、とても社会科学とは言い難い。
前述の「言語とイデオロギー」部会は今年初めての試みというわけではなく、もうずいぶん以前から設置されていたという点も重要である。今手元で確認できるプログラムで言うと2008年大会には既に設置されていた。考えてみれば、N. フェアクラフの『言語とパワー』の出版が1989年、R. フィリプソンの『言語帝国主義』が1992年である。そして、詳細は割愛するが、これ以降も英語圏では英語教育とイデオロギーをテーマにした書籍・論文が多数発表されている。既に30年近い蓄積があることになる。
実は日本の英語教育研究でも、その誕生時(1970年代)には社会科学的な研究が構想されていた。もっとも、学会設立時に特有の「力み(りきみ)」は多分にあっただろう。とはいえ、いずれにせよ当時、英語教育をめぐる政治経済学やイデオロギー分析を含めた学際的研究が目指されていたのは事実である。それが約半世紀の間に、着実に「忘却」されてきたことになる。代わりに英語教育研究の主流の位置を占めるようになったのは、言語学、心理学、そして指導法研究といった非・社会科学的アプローチである。
日本の英語教育関係者は、他の人文社会科学と比しても英米志向が強いように思う。対象言語が英語である以上、当然といえば当然だ。だが、だからと言って、無条件な英米志向かと言うとそれも違うようである。英語圏の応用言語学で隆盛している政治経済学的分析が、一向に日本に「輸入」されて来ないからだ。いわば、選択的英米志向である(本誌もそうですね)。
百歩譲って、今まではこうした選択的英米志向でも、それなりに上手く行っていたかもしれない。しかし、これからはそうは行かない。現在、日本の英語教育は政治的な力学に翻弄されている。たとえば、「グローバル化への対応」という(グローバリゼーションに関する研究が専門の一つである私にすら意味のわからない)スローガンのもと、理論的にも手続き的にも問題含みの「英語教育改革」がトップダウンで断行されている。必然的に、こうした問題を、現代の英語教育研究・応用言語学は取り扱わざるを得なくなっているのだ。少なくとも、従来のように、教材や指導法、言語習得といった非社会科学的なものだけを研究していれば済む状況ではなくなりつつあるように思う。