南スーダンにおける内乱:自衛隊PKOの試金石か
2011年にスーダンから分離独立を達成した南スーダンで、戦闘が激化しています。12月15日、首都ジュバで軍の一部が蜂起し、これを鎮圧しようとした部隊との衝突を皮切りに、19日には要衝ボルが反乱部隊によって制圧されました。既に多くの市民に犠牲が出ている他、米国人の救援にあたっていた米軍機が被弾するなど、深刻化する事態に、米国のオバマ大統領や国連の潘基文事務総長が相次いで憂慮を示しています。さらに、同国で油田開発などに携わっている外国人も相次いで退避しています。
南スーダンが全面的な内戦に陥った場合、それは独立したての南スーダンの将来に悲観的な前途を予感させるだけでなく、地域一帯の不安定化を促すことも懸念されます。のみならず、南スーダンの問題は、日本のアフリカ政策や国際協力にも深く関わるといえます。
南スーダンの内乱:キールとマシャール
先述のように、南スーダンは2011年7月に、スーダンからの分離独立を達成しました。この独立の経緯や意義については、以前に取り上げた通りです。ただし、そこで懸念として触れていたことが不幸にして結果的に当たってしまったのですが、今回の内乱は「南スーダンのスーダン化」と言えます。
もともと一つだった頃のスーダンは、北部にアラブ系ムスリムが多く、南部はアフリカ系キリスト教徒が中心で、人口に勝る北部が南部を支配する構図が定着していました。北部のイスラーム政権を率いるアル・バシール大統領が、イスラーム法を強制するなどしたこともあり、南北間での内戦が激化。結局、2005年1月にアル・バシールと、南部の解放闘争を率いたスーダン人民解放戦線(SPLA)のジョン・ギャラン指令の間で、即時停戦や6年間の暫定統治の後に独立の賛否を問う住民投票を行うことが合意されたのです。
この合意に基づき、スーダン南部では2011年1月に住民投票が行われ、7月に独立を達成しました。しかし、これにともない初代大統領に就任したのは、ギャラン氏ではなく、サルヴァ・キール氏でした。ギャランはバシールとの合意から間もない2005年7月、ヘリコプター事故によって死亡していました。この事故には陰謀説も飛び交いましたが、真偽は不明です。いずれにせよ、ギャランの跡を受けてSPLAを率い、初代大統領となったキールは当初、地域ごとのバランスに配慮した政権を樹立しました。そのなかで、副大統領に就任したのが、今回の内乱の一方の当事者となったリエク・マシャール氏でした。
ゲリラ組織の離合集散:その後遺症
マシャールは英国ブラッドフォード大学で哲学の博士号も得たインテリで、ギャランとともにSPLAを率いた経験も持ちます。しかし、スーダン全土を南部中心の国とするか、南スーダンとして独立するかといった路線の対立だけでなく、ディンカ人のギャランとヌエル人のマシャールというエスニック(民族、部隊)な対立も顕在化し、1994年にマシャールは一度SPLAから脱退しています。【Feyissa, Dereje (2011). Playing Different Games: The Paradox of Anywaa and Nuer Identification Strategies in the Gambella Region, Ethiopia. Berghahn Books.】
その後、マシャールはヌエル人主体のゲリラ組織・南スーダン防衛軍(SSDF)を結成し、北部に対する武装活動を展開しましたが、2002年にSSDFを率いて再びSPLAと合流。独立にともない、SPLA内部での実権を固めていたギャランの後継者で、やはりディンカ人のキールを補佐する形で、副大統領に就任したのです。
この経緯が示すように、キールとマシャールは、同じSPLAに所属しながらも、基本的には別の派閥で、しかもマシャールが旧SSDFメンバーに支持されていることからも、必ずしも良好な関係ではありませんでした。その冷たい対立が火を吹いたのは、今年7月にキール大統領がマシャール副大統領を含む閣僚を一度に罷免したことでした。マシャールはこれを「キールの独裁化」と非難。一触即発の状況下、軍内部のマシャール派による蜂起により、今回の武装衝突に至ったのです。
「南スーダンのスーダン化」
周知のように、アフリカの国境線は、19世紀のヨーロッパ列強の植民地化によって引かれた境界線をもとにしています。南スーダンの独立は、初めてこれを変更したもにであり、その意味で世界史的に意味があります。
一方で、かつてスーダン内部であった人種、宗派間の対立が、南スーダンにあってはエスニックな対立に置き換えられていると言えるでしょう。これらの文化的な差異が対立に至る背景には、政治権力が経済的利益に転換する構造があります。南スーダンは産油国で、かつてのスーダンにあった油田の約8割を抱えます。
石油などの資源が出ることが、政府収入とともに汚職を増加させ、さらに権力者が物質的利益で自らの支持者を囲い込む一方で、自らに敵対的な集団を強権的に抑え込む傾向を強くすることは、「資源の呪い」と呼ばれる現象の一環です。キール大統領の閣僚罷免は、この文脈から理解されます。また、蜂起から間もない22日、マシャール派の部隊が油田地帯のユニティ州(今の南スーダンに鑑みてなんと皮肉な名称か)を制圧したことも、偶然ではありません。いずれにせよ、南スーダンの対立は、異なるグループ同士の政治的、経済的利害をめぐる対立という意味においてかつてのスーダンと同様であり、それがここでいう「南スーダンのスーダン化」なのです。
日本にとっての南スーダン
一方、南スーダンの問題は、日本にとっても無縁ではありません。自衛隊は2008年10月から、当時のスーダン南部で展開していた国連スーダン・ミッション(UNMIS)に要員を派遣しており、現在は陸上自衛隊の330 名規模が施設部隊がジュバに駐留しています。
本来、PKO部隊の派遣は、防衛省・自衛隊の管轄です。しかし、その他のPKOミッションと同様に、そしてその他のPKOミッション以上に、南スーダンへの部隊派遣は外務省の強い要望によって実現しました。
もともと、自衛隊のPKO参加の第一号である1992年の国連カンボジア暫定機構(UNTAC)への派遣は、その直前の湾岸戦争(1991)で憲法上の理由から部隊を派遣せず、130億ドルを拠出したにも関わらず、国際的にほとんど評価されなかったことのショックから、外務省が推進して決議された1992年の国際平和維持活動協力法に基づくものでした。さらに、この背景には、やはり1990年代の初頭から外務省が掲げた、国連改革と安全保障理事会常任理事国入りという目標がありました。そこには、安保理常任理事国となる、言い換えれば政治大国を目指すためには、「カネだけでなくヒトも出す」必要がある、という認識があった(ある)と言えるでしょう。
安保理常任理事国入り問題はさておき、紛争地帯の安定に寄与することは国際社会の安定に欠かせず、引いては日本の安全にも関わるという意味において、PKO派遣そのものの意義はあると思います。ただし、自衛隊の場合は武器使用の制限が他国以上に厳しく、現場レベルでの活動に制約があります。2001年の法改正で、従来の「要員の生命保護のための必要最小限の武器使用」だけでなく、「自己の管理下に入った者(例えば避難民など)」や「武器、弾薬などの防護」のために武器が使えるように基準を緩和しました。しかし、他国の(PKO部隊を含む)軍隊への攻撃に対して自衛隊の部隊が反撃することや、離れた場所にいる文民を保護するために駆けつけて武器を使用することは認められていません。
このため、自衛隊の部隊は停戦監視と治安維持というPKO本来の目的を遂行することが困難です。今年1月のアルジェリア人質事件の後、自民、公明両党は自衛隊法の改正提言をまとめましたが、その際にも武器使用基準は最終的に維持されました。この観点から、自衛隊のPKO派遣が、戦闘に直面する危険性が比較的少ないミッションや、そのリスクが低い地域への派遣が多く、しかもその任務の多くが物資輸送や道路整備などの復興支援にかかわるものであったことは、不思議ではありません。
ところが、南スーダンは、武器が多く出回っており、さらに近隣には中央アフリカ、ソマリア、ウガンダなど、ムスリム系、キリスト教系を問わずゲリラ組織が跋扈する国が多いため、これまでに自衛隊が派遣されたカンボジアや東チモールなどと比較しても政情が不安定です。そのため、防衛省がこれに難色を示したのですが、他方で治安が悪い土地への派遣ほど対外的なアピール効果が高いことから、外務省はむしろ積極的で、これにより2012年の部隊増派が実現しました。
パッチワークの先にあるもの
今回の武力衝突を受けて、政府は「自衛隊の駐屯しているエリアは概ね平穏」と説明しています。かつてイラクへの自衛隊派遣をめぐり、国会での質疑のなかで「自衛隊のいるところが非戦闘地域だ」と豪語した小泉元首相を思い出してしまうのは、私だけでしょうか。
ともあれ、仮に自衛隊の駐屯しているエリアで戦闘がほとんど発生していないとしても、そもそも現在の南スーダンで安全な場所は、ほとんど想定できません。つまり、いつ何時、自衛隊の駐屯しているエリアやその近辺で戦闘が発生してもおかしくないと言えるでしょう。PKO部隊は積極的に戦闘に関わることを目的としませんが、かと言って襲撃の対象にならないわけではありません。南スーダンでは19日、国連南スーダン派遣団(UNMISS)基地がマシャール派とみられる部隊に襲撃され、インドからのPKO要員が3名殺害されています。
例えば、他の国連PKO部隊が襲撃された場合、あるいは近隣で文民がゲリラ組織に襲われている場合、自衛隊の部隊は国内法を優先させて関与しないべきなのか、それともPKO活動の国際的なスタンダードに従って可能な限り救援に向かうべきなのか。そこに関する議論は棚上げにされたまま、対外的なアピールのための派遣という既成事実だけが積み重ねられてきたのが、日本のPKO派遣といえるでしょう。一番気の毒なのは、判断を縛られながら判断を求められる、現場の自衛官です。政府・外務省はいうまでもないことですが、市民・有権者の側にも、最悪の事態を軽視する、正常性バイアスに近いものがあるのかもしれません。
武器使用に制約が多いのは、いかなる形であれ、現地で戦闘にコミットすることを忌避する思考を背景にするといえるでしょう。しかし、PKO部隊を送り出すということは、例え意図的でなくとも、戦闘にかかわる可能性があることをまず再認識すべきだと思います。対内的なアピールとして武器使用を制限して自衛官の手足を縛りながら、対外的なアピールとしてかつてなく危険な地域に部隊を派遣するという、パッチワークのような対応をしてきたツケが露呈しつつあるのであり、「自衛隊のいるエリアは概ね平穏」と言って済ませられる話ではありません。
そして、これは国際協力全般にとってだけでなく、日本の対アフリカ・アプローチにも関わる問題です。これまで再三取り上げてきたように、アフリカではテロ組織の活動が活発化しています。安倍総理は今年6月のアフリカ開発会議(TICAD V)で、アルジェリアの事件を念頭に、安全保障分野でのアフリカへの協力として、PKO訓練センターへの支援などを通じて、今後5年間に3000名の平和構築にかかる人材を育成することなどを約束しました。そこでは明言されていませんが、この地へ急速に進出する中国を念頭に、アフリカにおける国連PKOミッションへの参加も増える可能性は小さくありません。すなわち、同様のデッドロックが今後ますます増えることは、容易に想像されるのです。これらに鑑みれば、南スーダンでの内乱は、今後の自衛隊PKO派遣や対アフリカ・アプローチを占う試金石でもあると言えるでしょう。