井上尚弥が戦った「隔離空間」の舞台裏レポート KO劇の現場でなにが起きたのか?
百戦錬磨の重役たちも興奮のKO劇
「特別な選手だな(A special fighter)」
決着の瞬間、リングサイドに陣取った米大手プロモート会社、トップランク社の幹部たちの間から、そんな声が漏れたのがはっきりと聞こえてきた。
10月31日(日本時間11月1日)、ハロウィンの夜。米ラスベガスのMGMグランドガーデン内にあるカンファレンスセンターで行われたWBAスーパー、IBF世界バンタム級タイトル戦で、王者・井上尚弥(大橋)は挑戦者ジェーソン・モロニー(オーストラリア)に7回KO勝ちを飾った。
序盤からペースを奪った井上は、6回にカウンターの左ショートフックで先制のダウンを奪う。7回にはモロニーのワンツーに合わせた痛烈なノーモーションの右カウンターでダウンを追加。タフネスで知られるオーストラリア人は立ち上がったものの、足元が定まらず、ここで試合は終わった。
井上にとってラスベガスでのデビュー戦となる一戦で、文句のない内容での圧倒的なKO劇。本来であれば、会場は大歓声に包まれるはずだった。しかしーーー。
今回のタイトル戦は通称“ザ・バブル”と呼ばれた会場内で無観客興行として行われ、ドラマチックなKO後も場内はほぼ静まり返っていた。人口の歓声と音楽が流れ、井上陣営の喜びの声が響き渡ったのみ。そんな状況下だから、百戦錬磨のトップランク社の重役たちの感嘆の言葉が、6フィート離れた背後の席にいた私にも聞き取れたのである。
「とてつもない選手だ。考えていた以上だった」
88歳のボブ・アラム・プロモーターは興奮を隠し切れない表情でリングサイドを歩き回り、駆け寄った日本メディアにそう語り残した。
普段のアラム氏はボディガードに守られて人を掻き分けながらゆっくりと進むが、会場内にいる人の数が絶対的に少ないこの日はそんな必要もない。気色満面の大ベテランプロモーターが井上に歩み寄ると、“モンスター”も会心の笑顔を見せ、日本人ボクサーが初めて登場したラスベガスの“スタジオファイト”は終わった。
実はNBAよりも早かったボクシング界の”バブル”
新型コロナウイルスの影響で3月下旬から中断していたボクシングの定期興行を、トップランク社は6月9日から再開させた。
パンデミックの中でも可能な限り安全にイベントを開催するため、トップランク社と米スポーツ専門局ESPNがラスベガスのMGMグランドガーデンに作り出したのが“バブル(隔離空間)”。NBAが約200億円の資金を投じてフロリダ州のディズニーワールドに構えた“バブル”が話題になったが、実はトップランク社はNBAよりも1ヶ月半以上も前に同様の方法で興行を再開させていたのだ。
NBA、NHL、メジャーリーグサッカーといった他のスポーツリーグと比べると規模は小さくなるが、コンセプトは同じ。中に入る人間の数を必要最低限に減らし、PCR検査を徹底し、安全プロトコルを定めることで新型コロナウイルスの締め出しを図る。トップランク社が設定した施設内のルールは以下のようだった。
*試合会場はMGMグランド・ボールルーム・カンファレンスセンター
*選手たちは会場に到着直後、コロナの検査を受け、以降はホテルから外出禁止。試合前日の計量の際に再び検査を受ける
*セコンドに付けるのは2人まで(世界タイトル戦は3人まで)
*2人の公式カットマンが全試合でセコンドに入る
*使用されたタオル、バンテージ、グローブは危険物扱いで廃棄される
*ジャッジ、オフィシャルは6フィートの距離を保って座る
まずはPCR検査、そして隔離
今回、井上対モロニー戦を取材する3人の日本メディアのうちの1人となった私は試合3日前にあたる28日にMGMホテルに到着。すべての興行関係者が宿泊する12階の部屋にチェックインすると、即座にPCR検査を受けた。
その後、ホテルの部屋での自主隔離を義務付けられ、翌朝までに陰性の結果が出ることでようやく施設内を動き回ることが可能になる。幸いにも異常を知らせる連絡は届かず、ここで晴れて“バブルライフ”をスタートさせることになった。
会見、計量時には、関係者は裏口のエレベーターを使用し、一般客とは接しないようにして階下へ下りる。そこに常駐する車に乗り、わずか30秒ほどのドライブで敷地内にあるカンファレンスセンターへ移動するという流れだ。
試合だけでなく、会見、計量などのファイトウィークイベントもすべてこのカンファレンスセンターで行われる。入り口ではバーコード付きのリストバンドを渡され、滞在中は常にその着用が言い渡された。そうすることによって、どんな人間が中にいるのかが把握できるという仕組みだ。
これまで私はMLBのプレーオフ、NBAでも“バブル”で行われた試合に立ち会ってきたが、実際にその中に入るのは初めて。貴重な体験ではあるが、ひたすら劇的な時間が続くわけではもちろんない。
トップランク社の“バブル”はMGMホテルの12階と試合が開催されるカンファレンスセンターのみ。NBAがディズニーワールドに用意したような豪華なアメニティが備わっているわけではない。
ファイトウィークイベントに出席、取材し、あとはダイニングルームで1日3度支給される食事を摂る以外、ほとんどの時間をホテルの部屋で過ごすことになる。関係者だけでなく、選手も12階の1フロアに宿泊しているため、廊下などでしばしば顔を合わせる。
理想的な環境ではない
31日のアンダーカードに出場した平岡アンディをエレベーターホールでインタビューをしていた際、井上尚弥が通りかかり、瞬間、私の質問の声も止まりかけたことがあった。中に入る人数が少ない“バブル”という閉ざされた空間では、すべての人間が顔見知り。ウイルスを避けるために一緒に行動しているという意味で“運命共同体”のように感じられる。
限られた期間とはいえ、コンディション調整はより困難。食事の調達が難しくなるのは体重調整を余儀なくされるボクサーには特に厳しい。井上陣営は外で調理したものを会場に運び込ませるといった工夫をして乗り切っていた。
前述通り、アメニティは限られ、レクリエーション施設はカンファレンスセンターの片隅に卓球台などが置かれているくらい。緊張感を溜めすぎないようにという配慮か、モロニーとその陣営は試合前日の計量、食事後にのんびりと卓球を楽しんでいた。
”バブル”のおかげで実現した怪物のベガス上陸
ただ、こうしたすべての不便を考慮した上でも、トップランク社の“バブル”で4日間を過ごした後で、やはりこのようなステージを用意してくれた主催者には感謝したい気持ちが湧いてきたのも事実だ。
新型コロナウイルスの脅威が依然として終わらないアメリカ。ボクシングの興行再開にはこの設備が絶対不可欠だった。NBA ほどの潤沢な資金はかけずとも、トップランク社とESPNが信頼に足りる施設を作ったがゆえに継続的な興行は可能になったのだ。
冒頭で述べたとおり、井上のKO劇の直後、トップランク社の幹部たちの興奮ぶりは見ている方が驚くほどだった。日本のモンスターはそれだけの力量とポテンシャルを見せつけたということ。今後、世界の舞台での活躍に向けて、夢はさらに広がっていく。
本場のファンの前での戦いではなかったとしても、今回の一戦は間違いなく成功だったと言える。そして、現状では、“バブル”の運営が機能していなければモロニー戦も叶わなかったということは忘れるべきではない。
「(無観客の難しさは)感じなかったです。試合に集中していたので、大丈夫です。(ただ、)輝かしい舞台というのはボクサーにとって一番輝ける場所。またお客さんの前でやりたいですね」
試合を終え、無観客ファイトについて問われた際の井上のそんな言葉は正直な思いの吐露だったはずだ。
昨年11月のノニト・ドネア(フィリピン)戦では2万人を超える大観衆が集まり、選手とファンが一体となって盛り上がっていくような素晴らしい雰囲気になった。それだけに、今回は大きな落差を感じたことだろう。ライトアップされた場内はビジュアル的には美しいが、すかすかの空間には寂しさを禁じ得なかった。
それでも現代のボクシング界が生産性を取り戻すため、おそらくは日本が産んだ最高傑作である井上のキャリアを前に進めるためにも、“バブル”はどうしても必要だった。
モロニー戦は井上のボクシング人生のハイライトではなかったとしても、重要な通過点だったことは間違いない。無観客のラスベガスで開催された一戦は、いつか日本ボクシングの歴史の1ページとして振りかえられることになるはずである。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】