「どうする家康」で、大樹寺に逃げた家康を攻めた大草松平氏とはどういう一族か
NHK大河ドラマ「どうする家康」に、角田晃広演じる松平昌久という人物が登場している。桶狭間から逃げ帰った松平元康(のちの家康)を攻めるなど、同じ松平一族でありながら敵に回っている。この大草松平氏とは、どういう一族で家康とはどのような関係にあるのだろうか。
松平一族
松平氏は室町時代に信光が松平郷から岡崎平野に進出、やがて三河一帯に広がった有力国衆で、一四松平とも一八松平ともいわれる多くの庶流があった。
家康自身もこのうちの一つ安祥松平氏の出で、三河に攻め込んできた今川氏を撃退したことで、庶流から惣領の座にのぼったものだ。
大草松平氏もこうした庶流の一つで、安祥松平氏とは深い関係があった。
大草松平氏のルーツ
大草松平氏は、松平氏発展の基礎を築いた松平信光の五男光重が祖である。一方、安祥松平氏は信光の三男親忠が祖で、安祥松平氏と大草松平氏は同じ時期に生まれた庶流である。
光重は当初、生平・妙大寺(ともに岡崎市)に住み、のち額田郡大草(幸田町大草)を本拠として大草松平氏と称した。そして、地元の国衆西郷氏と結んで岡崎に進出し岡崎松平氏とも呼ばれた。
2代親貞は討死したらしく、弟の昌安(信貞)が3代目を継いだ。昌安は西郷頼嗣の子であるという説もあるなど、当時の大草松平氏は西郷氏と深い関係にあった。
一方、三河に侵攻してきた今川氏を撃退したことで松平一族の惣領となった安祥松平氏は、大永3年(1523)に清康が家督を継いだ。すると、清康は翌年に大草(岡崎)松平氏の昌安を追ってそこに新城を築いた。そして、以後は岡崎城を本拠として松平一族を統率、松平氏は三河を代表する氏族に発展した。
松平昌久の立場
岡崎を追われた昌安は、本来の本拠地である大草に戻った。この昌安の子が昌久である。
つまり、昌久にとって安祥松平氏とは、父の代に岡崎を奪った仇敵であり、松平一族の本拠となった岡崎城は自分が継ぐはずだったということになる。桶狭間から逃げ帰った元康を攻めたというのはドラマ上の脚色だが、そうしてもおかしくはない理由があった。
実際、三河一向一揆が家康に叛いて立ち上がった際には、昌久は子三光とともに吉良義昭に与して東条城に籠城し、家康勢と戦っている。そして、翌年に東条城が落城するとそのまま逐電したといわれる。
こうした経緯もあり、江戸時代になってからの大草松平氏の家譜では、昌久は単に「七郎某」とだけ記され、実名も事績も一切書かれていない。
その後の大草松平氏
なお、大草松平氏は昌久の孫の正親の代に復権する。
正親は桶狭間の戦いで討死、その子康安は6歳で家督を継ぐと、徳川家康に仕えて活躍し大草家を再興した。
江戸時代には子孫は水戸藩士となり、家老を務めた人物も出ている。