樋口尚文の千夜千本 第128夜「麻雀放浪記2020」(白石和彌監督)
この映画、遊びをせんとや生まれけむ
『麻雀放浪記2020』には、今どきの映画と興行をめぐってさまざまなことを感じさせられた。そもそも「東京オリンピックが中止になった近未来」を描くという設定が漏れ伝わってきたところで、あえて衆議院の議員会館で試写をやったというので、笑ってしまった。そこで顰蹙を買ったので試写も自粛する、という流れも、近頃ちょっと類を見ない宣伝作戦だなと思って愉快に思っていた。全篇をiPhoneで撮ったというし、宣伝もいかにも東映らしいやんちゃなやり方だなと共鳴した。
ところが、そんなそばから出演者が麻薬取締法違反容疑で逮捕され、すわ公開中止ではと本当の騒動となった。東映のステートメントによれば、社会的影響の大きさは重々理解しつつも有料コンテンツであることに鑑み、ノーカットで公開するということになった。これはキャストや関係者の不祥事が勃発すると思考停止モードでとにかく自粛すればいい、というSNS時代特有の過剰なバッシング傾向に対する過度でヒステリックなリスク対応とは一線を画したものであった。キャストやアーティストが罪を犯した場合、作品がどういうかたちで受け手にのぞむべきかという判断は「是々非々」でなされるべきで、その犯罪の質や程度問題にもよるだろう。
逮捕された出演者の保釈が一斉に報道されたのは実に公開前日で、宣伝上「物議」を演出しようと試みたのがホンマモンの「物議」にまみれることとなった本作は、今回の場合「作品に罪はなし」という意志を表明したわけであるが、何たることかこのテーマが内容、ストーリーにまでリンクしているのであった。昭和といっても常軌を逸してアナーキーな戦後のどさくさからタイムスリップした坊や哲(斎藤工)は、解毒され隅々まで律され息苦しい2020年の不寛容に呆れ返り、憤り、早く戦後に戻りたいと念じ続ける。奇しくも本作は、いかさまでも何でもありで、刹那の高揚に嬉々と命まで放り出す博奕道をもって今の社会の不寛容さを撃つ、という物語である。こんな作品が、それ自体公開すべきかどうかの問題にさらされ、まさに社会の不寛容な論調と向き合うこととなったというのは空前絶後のことだろう。
さてそんな特異な際立ち方をした本作だが、とにかく観ているとよくもまあこんなキテレツな21世紀版『麻雀放浪記』を思いついたものだと笑いを禁じ得ない。あえて詳述しないが、時をかけてしまった哲が出会うさまざまな風俗や生活のディテール(好演の「チャラン・ポ・ランタン」のももが演ずるVRセックスの場面などおかし過ぎだ)がとにかくブラックな諧謔とユニークなアイディアづくしで、「なんでこれが麻雀放浪記なの?」とくすくす笑いが絶えなかった。作品の置かれた深刻かつセンセーショナルな境遇とは裏腹に、作品そのものは案外そんな昭和ふうのナンセンスがあれやこれやと詰まった奇篇というか珍品で、大傑作とか大問題作というものではないものの、ひじょうにのびのびとアホらしさを愉しんでいて、こちらも思考のコリがほぐれる好ましさ満点の作品だった。
斎藤工はとても機嫌よく坊や哲に扮しており、戦後の雀荘のおかみと未来のAIに扮したベッキーも予想以上によかった。白石監督、脚本の佐藤佐吉、美術の今村力をはじめとするスタッフも、快調な遊びっぷりで、こういうはちゃめちゃさ加減が許されるのも今どき東映ならではのことかもしれない。『孤狼の血』で実録やくざ映画の時分の波濤荒々しき東映クレジットを復活させた白石監督は、今回は任侠映画の至宝『博奕打ち 総長賭博』へのオマージュも怠らないが、しかしこういう顰蹙もののお色気やギャグ満載の奇篇というのは往年の東映プログラム・ピクチャーにはゴロゴロしていて、久しぶりにそういう匂いに再会できた感じであった。そういう意味では、ここのところ『孤狼の血』しかり、『翔んで埼玉』しかり、本作しかり‥‥と、東映のけったいで俗悪でパワフルな興行の振り切具合は、シネコンのお行儀のいいラインナップに観客が飽ききってきた状況に風穴を開けて痛快だ。