【戦国こぼれ話】人の値段は二束三文だったのか?戦国時代における九州の人身売買の実態とは?
■人の値段は・・・
現在のわが国では、人身売買は禁止されている。また、人を雇う場合も最低賃金が法律で決まっているので、それ以下の賃金で働かせるわけにはいかない。
しかし、戦国時代の日本では、戦争のどさくさに人をさらい、無償で労働に従事させたり、売買することがあった。その実態とは、いかなるものだったのだろうか!?
■豊臣秀吉に助けを求めた大友宗麟
天正14年(1586)、豊臣秀吉は九州征伐を行った。ことの発端は豊後の大友宗麟が薩摩の島津氏に対抗すべく、秀吉に助けを求めたことである。
かつて大友氏は九州北部を統一する勢いを誇っていたが、この頃にはすっかり衰退しており、島津氏を相手に苦戦を強いられていた。
ところが、島津氏は天下人だった秀吉の実力を侮っていた。それどころか「得体の知れない男」と揶揄する始末だった。島津氏は大友氏を血祭りにあげるべく、豊後に攻め込んだのである。
■泣きを見た普通の人々
戦いがはじまると、まず泣きを見たのが普通の人々であった。フロイスは『日本史』の中で、その惨状を次のように記している。
薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来(長崎県諫早市)に運んで売った。このように三会・島原(以上、長崎県島原市)では、40人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。
実に生々しい光景である。薩摩の雑兵は捕らえた豊後の人々を肥後で売ろうとしたが、それが飢饉により困難と知るや、今度は肥前へ行って人身売買を行った。
わざわざ遠隔地まで出向くのだから、かなりの数であったことが判明する。いくら奴隷が安価な労働力とはいえ、食事を与える必要はある。早く売り捌きたかったに違いない。
■事実だった人身売買
この話が事実であることは、島津家の家臣・上井覚兼の日記『上井覚兼日記』天正14年(1586)7月12日条に次のとおり記されている。
路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。
島津領内には、戦いで負傷した兵卒たちも帰還したが、濫妨人は戦利品として豊後から女・子供をたくさん引き連れ、道が混雑していたというのである。その数は、相当なものになっていたのであろう。
そして、ここまで述べてきた人身売買に関与していたのは、奴隷商人だった。彼らは将兵から捕らえられた人々を買い取り、売買に携わっていたのである。
■当たり前だった人の略奪
九州では多くの戦いがあり、戦利品として人を略奪するのは当たり前になっていた。しかし、これは九州だけの話ではなかった。日本全国で見られた光景である。
売買された人々は、農作業などの労働にむりやり従事させられていた。なお、奴隷というのは個人の所有物であり、家畜と同様だったことを覚えておきたい。