サウジ人記者殺害事件を利用してアメリカを揺さぶるトルコ―焦点のシリア内戦
トルコ政府はサウジ人記者ジャマル・カショギ氏を殺害した18人の身柄引き渡しをサウジアラビア政府に求め、事件追及の手を緩める気配をみせない一方、サウジ政府をかばいたいアメリカを、この問題を利用して揺さぶり始めた。焦点は「シリア内戦でのトルコの活動をアメリカに黙認させること」で、サウジ人記者殺害事件は中東情勢を左右する問題になりつつある。
トルコの視線の先にあるアメリカ
10月23日、トルコのエルドアン大統領は議会で演説し、カショギ氏殺害が「残忍な計画的殺人」だったと述べて「過失による死亡」というサウジ政府の釈明を一蹴した。その後、サウジ検察も計画的な殺人と認めたが、これを受けてトルコ政府は26日、サウジ国内で拘留されている被疑者の身柄引き渡しを要求したが、サウジ政府は「国内で裁く」とこれを拒絶した。
以前に指摘したように、トルコ政府はカショギ氏殺害事件を、人権や報道の自由の問題としてよりむしろ、ライバルであるサウジを「とっちめる」手段として、重視しているといえる。
ただし、トルコ政府はアクセルを踏みすぎないように加減もしている。議会での演説に先だってエルドアン大統領は「全ての真実を明らかにする」と息巻いたが、結局は重要証拠である音声データを公開せず、さらにサウジの最高権力者ムハンマド皇太子に責任があるかにも言及しなかった。
つまり、トルコは情報を小出しにして、じわじわとサウジアラビアに圧力を加えているのだが、その視線の先にはムハンマド皇太子と近い関係にあるアメリカがある。
これも以前に述べたことだが、トルコはNATO加盟国でありながらアメリカとの関係が冷却化していたが、最近では関係改善の兆しがみえている。そのアメリカのトランプ政権は、サウジ政府と同様、基本的には「ムハンマド皇太子には責任がなく、末端の人間が勝手にやったこと」というストーリーでおさめたい立場にある。
この状況下、トルコ政府がカショギ氏殺害事件の全貌を暴くより、その手前で止めつつ「暴くぞ」と圧力をかけることで、サウジの後ろにいるアメリカから何らかの「ボーナス」を引き出すことにメリットを見出しても不思議ではない。
シリアでのことに口を出すな
そのボーナスとして浮上しているのが、「アメリカにシリア内戦への関与を控えさせること」である。
サウジ政府に被疑者の身柄引き渡しを要求したのと同じ10月26日、トルコ政府はシリアとの国境付近で活動するクルド人民防衛隊(YPG)に対して「最終警告」を通告し、武力活動を放棄しなければ攻撃する意志を示した。YPGは、アメリカが支援してきた少数民族クルド人の部隊だ。
2011年に始まったシリア内戦で、「反アサド」を掲げる欧米諸国は、やはりアサド政権と不仲だったサウジアラビアなどの周辺国とともにシリア反体制派への支援を強めた。そのなかで、アメリカをはじめ欧米諸国の主な支援対象の一つがYPGだった。
分離独立を求めるクルド人はシリア政府によって弾圧され続けてきたが、内戦の混乱のなかで支配地域を拡大し、シリア反体制派の中核を担う存在となった。欧米諸国ではもともとクルド人への同情的な世論が強く、アメリカ軍は反アサドで一致するYPGを支援するとともに、その拠点があるシリア北部に駐留してきた。
しかし、これはトルコにとって見過ごせないものだった。
「国を持たない世界最大の少数民族」とも呼ばれるクルド人は、シリアだけでなく、周辺のイラク、イラン、そしてトルコでも分離独立運動を続け、このうちトルコでは冷戦期からクルド労働者党(PKK)によるテロ活動が定期的に発生してきた。PKKをテロ組織に指定してきたトルコにとって、PKKとつながるYPGを同盟国アメリカが支援するだけでも問題だが、仮にシリア国内でクルド人が実質的に独立すれば、トルコ国内のクルド人が触発されかねない。
そのため、トルコはNATO加盟国でありながら再三にわたってアメリカにYPG支援をやめるよう求める一方、2016年12月にはアサド政権の存続を認める立場からロシアやイランとともにシリア内戦の終結に関する国際会議を開始。そのうえ、2018年1月にはトルコ軍がシリア北部に侵攻し、YPGと争うアラブ系民兵を支援してきた。
26日の「最終警告」はこの延長線上に出たものだ。
もちろん、トルコはアメリカ軍を標的にしているわけでなく、むしろ10月初旬にはアメリカ軍が駐留する北部マンビジュの近郊で、両軍による合同パトロールのための訓練が始まるなど、衝突を回避するために部分的に協力している。
しかし、「最終警告」の通告でトルコは、アメリカと正面から衝突することを避けつつ、クルド人勢力を排除する方針を示した。言い換えると、エルドアン大統領はサウジ政府を擁護したいアメリカに、「サウジ人記者殺害事件の追及で手を緩めること」と引き換えにシリア北部で譲ることを求めたといえる。
シリア内戦終結の王手
それでは、アメリカはトルコのYPG攻撃を黙認するのか。
「アメリカ第一」を掲げるトランプ大統領は、シリアから撤退する方針を以前から掲げていた。これを押しとどめてきたのはマティス国防長官ら軍出身者だったが、ここにきてトランプ大統領とマティス国防長官の不仲説が頻繁に取り上げられるようになっている。
そのうえ、トランプ政権にとって、中東での最大の敵イランを封じ込めるうえで、サウジの歴代国王以上にイランに敵対的なムハンマド皇太子の安泰は重要課題である。トルコがもし決定的な証拠を世界に向けて発信すれば、ムハンマド皇太子とてその立場を保つことは難しい。ムハンマド皇太子が一線から退けば、アメリカの中東戦略も大きく見直しを迫られる。
そのため、エルドアン大統領からの要望に直面したトランプ大統領がマティス国防長官やYPGよりムハンマド皇太子を選ぶ可能性は小さくない。
ただし、その場合の影響は大きい。それはカショギ氏の事件がうやむやになるだけではない。
仮にトルコがYPG攻撃に踏み切れば、孤立無援のクルド人勢力がこれに抵抗することは難しい。それはアメリカがクルド人を見捨てることを意味する。
一方、トルコの「最終警告」がただの威嚇で、実際にはYPG攻撃がなかったとしても、既にアサド政権を支援するロシアは、クルド人の取り込みに着手している。そのため、トルコをアメリカが明確に押しとどめなければ、それだけで(全体でなくとも)YPGにアサド政権やロシアの軍門に下らせる圧力になる。
つまり、アメリカがトルコの行動を黙認すれば、どちらに転んでも、既にシリアのほとんどを支配しているアサド政権とその同盟国が主役となる形でシリア内戦が終結に向かう大きな一歩となり得る。それは中東でアメリカやサウジの影響力が低下することも意味する。
さらなる混迷の淵へ
化学兵器の使用、IS台頭、米ロの対立、数百万人の難民流出などを促した、7年以上に及ぶシリア内戦の終結そのものは歓迎すべきかもしれないが、それは中東の安定を必ずしも意味しない。
シリア内戦でトルコに譲った場合、アメリカやサウジは別のところで活動を活発化させ、中東での影響力を回復させようとするだろう。さらに、アメリカがシリアでの軍事活動を事実上放棄すれば、マティス国防長官が職を離れるきっかけにもなりやすく、その場合トランプ政権の内部でボルトン大統領補佐官など、より強硬派のメンバーが発言力を強めることにもなる。
これらの条件がかみ合えば、とりわけアメリカやサウジが敵視するイランを取り巻く情勢がより緊迫することが見込まれる。
したがって、エルドアン大統領のメッセージを、トランプ政権が無視しても、受け入れても、中東情勢に大きな影響をもたらすとみられ、サウジ人記者殺害事件は、多くの人の命運を左右するインパクトを秘めているのである。