樋口尚文の千夜千本 第212夜『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(井上淳一監督)
こんなにフツーに面白くていいのだろうか?というフシギ
『止められるか、俺たちを2』はいいとして『青春ジャック』っていったい何なのだ、まるで1980年代のビデオスルーのモサい洋画の邦題みたいではないか。井上淳一監督のお師匠は半世紀以上前に『性賊』と書いて『セックスジャック』と読ませる映画を撮っていたが、やはりその伝統からすると『青春ジャック』は爽やかすぎてパロディにも聞こえないだろう。とかなんとかニヤニヤと考えながら、もう半年前の夏の盛りにいち早くこの作品を観た。
この内覧試写がまた柏原寛司氏が人形町で営む地下の秘密結社じみた小さな試写室で、そこには登場人物のモデルとなったシネマスコーレの木全純治氏もいて挨拶を交わし、すぐ横には主演俳優の芋生悠さんもいてこちらも大変感じがよかった。だが私はこういうお身内感が苦手なので、タイトルがくだんのように疑問であったうえに、この上映環境には正直身構えさせられた。
だがしかし!そんな私は開巻早々、杉田雷麟扮するこの情けなく融通きかぬ映画志望の少年に惹きつけられ、気づけばやたら無防備に笑ったり身につまされたりしていた。その時分に公開されていた山田洋次の人情喜劇『こんにちは、母さん』には笑えないどころか虫唾が走る感さえあって、ちょっと当節の喜劇には絶望していた。そんな私が『青春ジャック』というあり得ないタイトルの小品に、なんでしたたかに笑わされているのか、ちょっと不思議なくらいであった。
私は2018年の本レビュー「千夜千本」第117夜で前作『止められるか、俺たちを』の井上淳一脚本や白石和彌演出について、こんなことを記している。「(井上や白石は)自分が遅れてきた少年であることを隠さない。だが、もしも本作を劇中の若松プロの同時代者が撮ったら、ここまで素直で直球の内容にはしないで、なんとももやもやと悩ましいものになったことだろう。」その姿勢は今回の二作目でも継承されていて、まして本作ともなれば若松孝二を描くといっても井上監督の自伝的ストーリーが軸となる「軽薄短小」の80年代の話なので、もはやアヴァンギャルドな表現や戦闘的なテーマ自体が物語に入って来ない。ごくごく素朴で素直な映画少年の青春記なのである。
私を笑わせたのは前作同様に若松孝二を「完コピ」を超えて「キャラ化」させた井浦新ののりにのった怪演もさることながら、くだんのシネマスコーレの木全氏に扮した東出昌大の研究ぶりであった。たっぱがあるのに猫背で飄々としたそのたたずまい、歩き方のひとつからして、もう全身で木全氏になりきっていて、木全氏本人を知る人が観たらさぞや吹き出すであろう(東出昌大は素行を云々されがちだが本作といい『福田村事件』といいとても精彩を放っている)。
もっとも私は自分でインディペンデントの映画を創って、ミニシアターで舞台挨拶行脚をやっている井上監督に出くわしてはエールを送ったり、自作を抱えてそれこそ木全氏のお世話になってシネマスコーレで上映やトークをしたりと、そこそこ本作周りの人びとを知っているので、ここは実は判断が難しかった。つまりなまじそういう「実像」を知っているから私は面白がれているのであって、一般の観客ははたしてこれを面白く思うのだろうか、そこはちょっと自信が持てないのであった。だが、その後本作を観た一般のお客さんはじゅうぶんに笑っているらしいので、本作の面白さはごく普通に伝わるものらしい。
それにしても、若松プロやシネマスコーレや河合塾といったなかなかにこみいったものを描きながら、それでいて直球の面白さや切なさに満ちた「娯楽篇」(と呼んで差し支えないだろう)になっているというのはかえすがえすも不思議なことだ。そしてまた、そこらの既成の映画会社の商業作よりもずっと屈託なく面白い作品が、こうしたインディーズ作品というかたちで成立している、というあり方も何だか妙なことである。若松プロのDNAを継ぐものたちの作品が『性賊』ならぬ『青春ジャック』だという冒頭の違和感に発して、こうした作品全体の立ち位置の「据わりの悪さ」が本作ならではの妙味を生んでいよう。なぜこんな成立のしかたも内容もこみいったマイナーなミニシアター向け作品が、なぜこんなシネコン一斉公開作品よりもフツーに楽しめる「娯楽篇」なのか?と。