子どもの防犯と「割れ窓理論」 栃木の女児誘拐殺人事件を検証する
18年前の11月下旬から12月上旬にかけて、広島県広島市と栃木県今市市(現日光市)で、続けざまに下校途中の小学1年の女児が連れ去られた。その結果は殺害という最悪の展開だった。実に痛ましい事件である。以下では、この二つの事件の共通点を探り、そこから犯罪予防のための教訓を導き出したい。
広島の事件で死体が遺棄されたのは、近くの空き地だった。その空き地には、落書きがあり、おびただしいゴミも捨てられていた。そして、落書きと散乱ゴミは、栃木の事件で女児が誘拐された場所にもあった。
割れ窓理論とは何か?
落書きや散乱ゴミを重視する理論を「割れ窓理論」と言う。「犯罪機会論」のソフト面(心理面)を担う犯罪科学だ。
犯罪機会論は「犯行のチャンス」をなくそうとするアプローチで、「犯行の動機」をなくそうとするアプローチ(犯罪原因論)とは違う。つまり、動機があっても、犯行のコストやリスクが高く、犯行によるリターンが低ければ、犯罪は実行されないと考える立場である。
なぜその場所で犯罪が起きたのかを追究してきた「犯罪機会論」は、犯罪が起きやすいのは「入りやすく見えにくい場所」であることを解明した(下図)。
このうち、心理的に「見えにくい場所」には二つのパターンがある。一つは、管理が行き届いてなく、秩序感が薄い場所であり、もう一つは、不特定多数の人が集まる場所だ。割れ窓理論は、前者のパターンを扱う。そこは、言い換えれば、関心が払われていない場所だ。
ここで言う「割れた窓ガラス」とは、地域社会の乱れやほころびの象徴であり、その背景に住民の無関心や無責任があることを連想させる言葉である。
無関心・無責任だからこそ、乱れやほころびが放置され続けているというわけだ。
乱れやほころびとしては、施設の割れた窓ガラスのほかにも、落書き、散乱ゴミ、放置自転車、廃屋、伸び放題の雑草、不法投棄された家電ゴミ、野ざらしの廃車、壊れたフェンス、切れた街灯、違法な路上駐車、公園の汚いトイレなどが考えられる。
乱れやほころびが放置されている場所は、犯罪者に住民の無関心・無責任を連想させ、そのため、犯罪者は「犯罪を行っても見つからないだろう」「犯罪が見つかっても通報されないだろう」「犯罪を止めようとする人はいないだろう」と思う。
つまり、犯罪者にとってその場所は、見て見ぬ振りをしてもらえる、心理的に「見えにくい場所」なのだ。
逆に、乱れを直し、ほころびを縫えば、それは、犯罪者に対し「警告メッセージ」になる。
つまり、そうした場所は、犯罪者にとって心理的に「見えやすい場所」なのだ。言い換えれば、犯罪が発覚・通報されやすい場所である。
秩序の乱れが凶悪犯罪を引き起こす
割れ窓理論は、1982 年に、ハーバード大学研究員(後にラトガース大学教授)のジョージ・ケリングが提唱した。
原語の「ブロークン・ウィンドウズ」は「破れ窓」と訳されることもあるが、誤訳である。「窓破り」は空き巣の手口で、乱れやほころびといった地域の「無秩序」とは関係ない。
ちなみに、イギリスでは、割れ窓理論が重視する「無秩序」が法律の名前に採用されている(Crime and Disorder Act 1998)。
割れ窓理論が、地域に目を向け、秩序の乱れを重視するのは、「悪のスパイラル」と呼ばれる心理メカニズムを想定しているからだ。秩序の乱れという「小さな悪」が放置されていると、一方では人々が罪悪感を抱きにくくなり(つまり、悪に走りやすくなり)、他方では不安の増大から街頭での人々の活動が衰える(つまり、悪を抑えにくくなる)。そのため、「小さな悪」がはびこるようになる。そうなると、犯罪が成功しそうな雰囲気が醸し出され、凶悪犯罪という「大きな悪」が生まれてしまうというわけだ。
例えば、ある商店の壁に落書きをされたとしよう。それがしばらく消されないでいると、「ここの落書きは消されずに見てもらえる」というメッセージになる。そのメッセージを受け取った人は、「誰かほかにも落書きした人がいるのだから、自分が落書きしても構わないだろう」と思う。そうなると、次から次へと落書きをされてしまう。
落書きだらけの壁の前には、「落書きができるのなら、これも許されるだろう」と思った人によって、ゴミが捨てられ、自転車が放置される。すると、「ここなら、ひったくりも成功しそう」と思う人が現れ、裏路地でひったくりに及ぶ。
そのことが、「ひったくりが成功したのなら、空き巣だって成功するはず」と思う人を呼び寄せ、近所の家が盗みに入られてしまう。さらに、盗みに入った家で、帰宅した家人と鉢合わせすれば、強盗殺人事件に発展する。
このように、落書きという「小さな悪」の放置が凶悪犯罪という「大きな悪」を生み出してしまう。したがって、落書きや散乱ゴミなど「小さな悪」を見かけたら、見て見ぬ振りをせず、きちんと対応することが必要である。そうすれば、人々の罪悪感の低下を防ぎ、犯罪が成功しそうな雰囲気を漂わせないことができる。
事件現場にあったサイン
さて、冒頭に触れた栃木の女児誘拐殺害事件を、この割れ窓理論の視点から検証してみよう。
栃木の事件では、下校途中の女児が連れ去られ、茨城県常陸大宮市の山林で遺体となって発見された。
この被害者の通学路周辺には、心理的に「見えにくい場所」と犯罪者に思わせてしまうシグナルが数多くあった。
まず、通学路付近の高速道路をくぐるトンネルの壁面に落書きがあった。
次に、通学路沿いの宅地分譲地には、冷蔵庫、自転車、タイヤ、洗濯機、自動車、コンピュータなどが不法投棄されていた。
この分譲地は、分譲後に開発が放棄されたため、人家はなく、荒れ放題になっている。
しかし、この分譲地も、そして、高速道路下のトンネルも、被害女児にとって、登下校の近道になり得る場所だった。
最大の敵は無関心――これまで多くの人が、繰り返し訴えてきたメッセージだ。
筆者が小学校で防犯の授業を行うときは、「まいっか人間」を登場させ、割れ窓理論を具体的に教えている。
「まいっか人間」は、落書きを見ても、散乱ゴミを見ても、何を見ても、「まいっか」と言って、見て見ぬ振りをする人間だ。
「まいっか人間」に警戒すること、「まいっか人間」にならないこと。それが安全な社会につながっていく――そう子どもたちに伝えている。