樋口尚文の千夜千本 第44夜「私たちのハァハァ」(松居大悟監督)
虚実の皮膜でハァハァしてごらん
松居大悟監督は、まだ圧倒的な唯一無二の代表作こそ撮っていないと思うが、どれを観てもはずれなしの面白さがあって、常に次を期待させてくれる。もっと言えば別に代表作を終生作らないフィルモグラフィの描き方だってある訳だが(意外と私の好きな映画作家はそういうタイプが多い)今までの作品のなかであえて言えば、本作同様クリープハイプとの絡みで生まれた『自分の事ばかりで情けなくなるよ』などはとても鮮やかな細部があって特に好きだった。しかし松居監督作を観て思うのは、たとえばこの作品で池松壮亮がおはこのダルでどうしようもない感じを発散させるのに対して、監督の視座やタッチは至って健康的なのである。それは松居監督と同世代のクリープハイプの楽曲を聴いていても同じようなものを感じるのだが、とてもデリケートでナイーブな感覚に占められていつつ、根っこが健康で屈託がない。
いずれまた他の監督の作品をもってそこにはふれたいが、松居監督と同世代の三十歳前後にはすぐれた女子の映画作家も続々輩出しているが、彼女たちの多くは同様に極めて繊細で個の内面にふれる作品を身上とするも、もっとひりひりするようなハリネズミ的牽制を基調とし、こういうあっけらかんとした健康さや屈託のなさは、男子的な特徴かもしれない・・・などと松居作品を観ていて思うのであった。そして、こういう男子映画の先達である本広克行監督も映画『幕が上がる』や舞台『転校生』などでティーンの女子を屈託なく健やかに描く点では同じだが、本広監督があくまでフィクションとしてのしっかりした構えを伝承しているのに対し、松居監督はぐんとドキュメンタリーのような距離感で女子たちに動静に密着してみせる。これはやはりフィルム世代の美徳順守に対する、デジタル世代の奔放な権利行使の賜物であろう。
さて、今回の作品『私たちのハァハァ』には、松居監督がかなり代表作に近いものを撮れたのではないかと思ってしまいたくなる、ちょっと得難い弾けっぷりがあった。内容は至ってシンプルで、北九州の田舎に住む女子高生四人組が、福岡でクリープハイプのライブを見て心酔し、どうしても東京のライブにも行きたくなって、なんと福岡から東京までの1000キロを自転車で走破しようと思いつきで出発してしまう・・という高3の夏物語だ。彼女たち自らがビデオカメラを回しているので、劇中では合法的にさまざまな視点が提供され続ける。そのもはや彼女たちの言葉も感情も、このデジタル映像のかけらたちが軽やかに、雄弁にそのままを表現してしまうさまは、アレクサンドル・アストリュックにいわゆる「カメラ万年筆理論」の境地が約70年後にひょこり実現した(!)などと言ってしまいたくなるくらいだ。
そういえばわれわれはつい最近この「カメラ万年筆」映画の傑作『劇場版テレクラキャノンボール2013』を観ている訳だが、あの作品がドキュメンタリー的に偶然のなりゆきを鷹揚に取り込みながらフィクション以上の盛り上がりを捻り出していったのに対して、『私たちのハァハァ』はこの女子高生四人組があたかも本物の素人なのではないかというぐらいの演技の緩さに、彼女たちがビデオを回しているという設定も相俟って、これは本当に1000キロの旅程を同行しながらの紆余曲折をなりゆきでおさめているのではないか?いやさすがにそんな都合のよい展開はないから、あらかじめ全てきっちりシナリオに記されたことを巧妙に再現しているのだろうか?・・・と、あれこれ勘ぐる面白さがあった。
こういう本物のドキュメンタリーに見えるものほどフィクションであるというのが通例だが、ここはとても興味があったので松居監督に尋ねてみたら、案の定でそういうところほどしっかりシナリオがあったという。福岡から張りきって順調に山陽地方あたりにたどり着くまでは、まだこの作品の面白さは見えてこないのだが、それ以降急にみんながへばり出してもともと貧弱な軍資金にも事欠いてきたあたりから、やにわに目が離せない展開になってくる。途中でヒッチハイクに応えてくれる謎の青年(またしても池松壮亮がどうしようもない味を出して好演)がへんてこな気分の迂回の時間を運んできたり、神戸ではクリープハイプの同好の士の口ききでちょっと大人のバイトをして、それがまた彼女たちの友情に亀裂を呼んだり・・・この岡山から神戸に至るシークエンスは本作の最も鮮やかなところだ。雨の降る夜の池松壮亮との遭遇から曇天の翌朝の別れに至る場面など、少し殺伐とした情感が忘れ難い。
そしてもう間に合わないかと思われたライブを目前に、新幹線でぎりぎり間に合いそうだとなった四人組が、ある最後のトラップに気づく。このあたりでのLINEを活かした心の声のシリアスな応酬は、そのトラップのバカバカしさ(もちろん当の四人組にとっては大問題なのだが)もあって本当におかしい。『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』なども然りだが、最近の映画ではSNSを小道具として効果的に使うこなれた例が増えてきたけれども、本作でもTwitterが諍いのネタになったり、LINEがスピーディな内面吐露の口実になって物語を弾ませていた。そして、この最後のトラップに打ちひしがれる四人は絶対にライブには遅刻することになり、もうこの頃になると目いっぱい彼女たちを応援してしまっている私などは「なぜ君たちは今ここで、オハコのヒッチハイクを使わないのか!?」などと余計な事を考えてしまうくらいの入り込みようなのだが、ここでじらしにじらした松居監督は彼女たちとクリープハイプのなかなか小粋な「結末」を用意している。
確かにこの終盤などは練ったシナリオあっての実にすっとぼけた、憎めない展開なのだが、松居監督によればエンディングはもっときっちりとした(遊びの時間の終わりを告げる)ドラマだったそうで、しかしここまで語りおおせた後は逆に彼女たちをフィクションに収束したくなくて思いきり走らせたのだと言う。まさに本作は、あくまでフィクションという青写真のもとで現場にて虚実のあんばいを探りながら撮っていった感じが風通しよく、四人の女子もそのきわどい皮膜のところに軽々とおさまって鮮やかだった(それは成長過程の出来過ぎていない彼女たちだからこその成果だろう)。そしてこうしたことの向こうには、はじめにふれた松居監督のフィクション的要素もドキュメンタリー的要素もスカッと爽やかに肯定する健康さが際立っている。それは情理をあのハイトーンボイスをもってさらっと併せ呑む尾崎世界観の持ち味と、ちょっと似ているかもしれない。