理論の下、マンダリンヒーローと共にアメリカンドリームを追った一人の男の物語
権利を放棄し、後悔
大井からケンタッキーダービー(GⅠ)に挑んだマンダリンヒーロー。サンタアニタダービー(GⅠ)で2着に好走後の転戦には誰もが驚かされた。しかし、この挑戦を決して無謀だとは考えず、理論的に計算していた男がいた。
1976年6月1日生まれだから間もなく47歳になる藤田輝信。大井で開業する調教師だ。
大井競馬場と米国サンタアニタパーク競馬場との提携により、大井での指定されたレースでサンタアニタダービーの出走権を懸けたポイントが与えられるようになったのが2018年。サンタアニタダービーはそれ自体がGⅠであるだけでなく、ケンタッキーダービーへ向けた重要なプレップレースでもある。しかし、大井に所属する3歳馬にとっては目の前に羽田盃と東京ダービーがあり、それらを蹴って太平洋を渡る事は、現実的ではなく、事実、これまでこの制度を利用して米国に挑戦する馬はただの1頭も現れなかった。
そんな中「チャンスがあれば挑みたい」と考えていたのが藤田だった。
「制度が出来てすぐにうちの厩舎のラプラスがハイセイコー記念を勝ちました」
同レースでポイントを稼ぎ、いきなりサンタアニタダービーが現実味を帯びた。しかし……。
「またいずれチャンスに巡り合えると思い、その時は辞退しました」
手を挙げなかったその年のサンタアニタダービーをチェックして、悔やんだ。
「僅か6頭立てでした。3着以内に入れればポイント的にケンタッキーダービーにも出られそう。6頭立ての3着なら夢物語ではないと考えると、行くべきだったかと思いました」
その後のケンタッキーダービーを観て、後悔の念は更に強くなった。
「マスターフェンサーが挑戦し、吉澤オーナーが『この20頭の中に入れただけで感無量』とおっしゃられているのを聞いて感動し、自らその権利を放棄してしまったのを、本当に悔みました」
第一印象は普通の馬?
これを機に「次のチャンスは逃さない」と考えた。しかし、現実は甘くなかった。最初の一歩である米国行きの切符を獲得出来る馬に巡り合う事が、まず難しかった。
1年、2年、3年と過ぎ、4年目に、ついに現れたのがマンダリンヒーローだった。
「信頼の置ける仲介の方に薦められ、新井(浩明)オーナーにサマーセールで落としてもらったのですが、僕自身の第一印象は正直『普通の馬かな?』という感じでした」
ところがデビューするとポンポンと連勝。4連勝でハイセイコー記念も優勝した。
「ラプラスの時みたいに後悔したくないと考え、オーナーにアメリカ挑戦を進言しました」
夢と現実の狭間で、オーナーは逡巡したようだが、最終的には首を縦に振ってくれた。こうして、叶えられる事になった藤田の願いだが、大変だったのは、この後だったと言う。
「最終的にオーナーに快諾をいただいたのが2月28日でした。レースは4月8日なので、3月の中旬には視察のために一度渡米して、飼料を用意したり、段取り決めたり、馬を出国検疫のために移動させたりしました。また、担当厩務員が新型コロナウィルスのワクチンを未接種だったため渡米出来ないというので、新たな担当者に引き継ぐ等、バタバタして、あっという間に時間が過ぎていきました」
鞍上には現地の競馬にも慣れている木村和士を迎えた。木村はカナダのリーディングジョッキー。藤田が、木村の父と昔からの知り合いだった事に加え、たまたまこの時期、彼がサンタアニタで乗っていたので、依頼した。
「偶然にもサンタアニタダービーの翌日までそこで乗っているというので、お願いしました」
しかし、全て順調に進んだわけではなかった。
「火曜日に最終追い切りをする許可をもらっていたのですが、直前になって『その日はダメ』と言われ、急きょ月曜に変更しました」
ただ、この際も慌てはしなかったと言い、その理由を次のように述べた。
「以前、韓国へ遠征させてもらったのですが、その時も許可をもらっていたはずの“ゲートの先入れ”が、現場で急にダメと言われました」
調教師になる前にはアイルランドの厩舎で修業をした。また、リスグラシューがコックスプレート(GⅠ、豪州)を優勝した際、現地で立ち会う等、海外での臨場経験も豊富。許可をもらっても、確認をしていても、係員の気分一つで風向きが変わるのが「海外あるある」である事を、分かっていた。だから、狼狽えなかったのだ。
結果、ご存知の通りハナ差の2着に大健闘。皆が驚いたこのリザルトも、藤田にとっては計算の上、導き出されたそれかと、改めて問うと、かぶりを振り、苦笑して答えた。
「ここまで出来るとは思いませんでした。むしろレース直前には弱気になり、パドックで木村君に『何とか3着までには持って来てほしい』と言ったところ、彼に『地方の馬でもやれるところを見せて、皆を驚かせましょう!!』と言われ、勇気付けられる始末でした」
潰えそうになった夢の続き
嬉しい誤算で大健闘し「ケンタッキーダービーに駒を進められる!」と藤田は小躍りした。
「ポイント順で25番目(フルゲートは20頭)と分かった時も、過去を振り返ったらこの順位で出られなかったのは3頭だけだったので、大丈夫だろうと考えていました。ただ、レース4日前に全頭追い切り終えた時点でも22番目だった時は、さすがに無理かと思いました」
出走出来れば主催者が負担してくれる経費も、出られなかった場合、オーナーの持ち出しになる。一方、早目にプリークネスに切り替えれば、新たにそちらから補助金が捻出される。ここまで助けてくれたオーナーにこれ以上の迷惑をさせられないと、藤田は自らの夢に幕を下ろそうと決断した。
「そこでオーナーに『プリークネスに切り替えましょう』と伝えたところ『お金の心配はしないで良いので、最後の最後まで諦めずに吉報を待ちましょう』と言ってくださりました」
オーナーは経費に目を瞑っても藤田と夢の続きを見る道を選択してくれた。
そんな陣営の想いに、タイムリミットギリギリで、競馬の神様が微笑んでくれた。
「レース前日の5日の午前1時に『使えそうです』と現地から電話が入りました」
翌朝、子供を預ける手配をした後、夫婦で羽田を発った。そして、現地時間同日23時過ぎに決戦の地チャーチルダウンズ競馬場があるルイヴィルの空港に降り立った。発走まではもう20時間を切っていた。
「レース当日の朝、久しぶりに見たマンダリンヒーローは、前走時よりも良く見えました。1頭だった前走時と違い、デルマソトガケとコンティノアールが同じ検疫厩舎にいたのも精神的に良い影響だったのだと感じました」
また、長きにわたった米国の生活に、馬自身、すっかり馴染んで来ているとも感じたと続ける。
「慣らすために毎日リードポニーを付けたし、発走練習もあえてゲートボーイを付けてやりました。日本のやり方を通すよりも“郷に入っては郷に従え”という事で、米国式に合わせたのが良い方向に出ているように思えました」
レース直前にはダービー出走馬とその関係者が厩舎地区からパドックまでのコース上を大名行列のごとく行進。藤田もマンダリンヒーローと共にダートの上を歩いた。
「15万人で埋め尽くされたスタンドは、着飾っている服や帽子のせいかまるで花畑みたいに見えました。マンダリンヒーローは現地でも人気があって、沢山のファンから声をかけてもらえ、一生の思い出になったと思いながら行進しました」
悔いなき戦い
パドックでは、前走時同様、木村に勇気付けられた。「5着以内に来られないかな……」と藤田が言うと、カナダから駆けつけた木村は「勝ちに行きますよ」と答えた。
「『頼りにならないおじさんだ』と思われたかもしれませんが、若い子に支えられて勇気をもらえました」
その後の馬場入場時にはケンタッキーダービー名物のマイオールドケンタッキーホームの大合唱があった。大合唱を聞きたい思いと、馬がイレ込まないか心配する二律背反の気持ちを抱えていたが、これには思わぬ結果が待っていた。
「外枠だったので、馬場に入る前のトンネルを歩いている時点で、合唱が終わりました。聞きたい気持ちはあったけど、馬の事を考えると、変な影響がなくて良かったとホッとしました」
レースはコース脇の馬主席で観戦した。
「アメリカの馬になったのかと思うくらい好スタートを切り、集団にもついて行けていました。そういう意味では安心して見ていられたけど、それでもドキドキしました」
ただ、勝負どころで少し置かれそうになった。
「3コーナーあたりでメイジに抜かれて少し怯んだ感じでした。それでも最後にまた伸びる素振りを見せてくれました。結果は12着でしたけど、納得のいく競馬をしてくれました」
二桁着順での敗戦を受けて「キーンランド競馬場へ入れて調整する等、打てる手がもっとあったのでは?」とも考えた。しかし、ラプラスの時に感じた悔いる気持ちは微塵もなかった。
「行かなければ一生後悔したと思います。そういう意味でもオーナーを始め助けてくださった皆様とマンダリンヒーローには、感謝しかありません」
海を越えて挑んだ者だけが得られる堂々たる向こう傷は、藤田の今後のホースマン人生を更に豊かに彩ってくれるだろう。新たなる挑戦が今から楽しみでならない。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)