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【災害支援】ボランティアは行政の下請けか?!

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
ブルーシートの青さが目立つ熊本・西原村。被災した人々の生活を立て直すには……

「読みましたか?」

知人からそう促されて、西宮市の今村岳司市長のブログを読んでみた。災害支援に係わる人たちの間では、ちょっとした衝撃を与えているらしい。一読して、驚きを禁じ得なかった。内閣府の防災基本計画でも「ボランティアの適切な受け入れ」が書かれ、災害対策での「民」の力の活用を前提にしている中、ここまで「”外からの”ボランティア」を嫌う自治体首長がいるのか……と。と同時に、災害時の「官」と「民」の関係を考えるうえで、実によい問題提起をしてくれている、とも思った。

市長と地元紙記者の論戦

発端となる記載は、熊本地震の本震翌日になされている。

〈あらゆる「支援」は、被災地行政機関(他、類する信頼できる団体)ないしは、国県他の行政機関(他、類する信頼できる団体)の照会と要請を受けて為されるべきものです〉

特に発災直後には、個人がボランティアにかけつけても、かえって被災自治体の仕事を増やすだけで迷惑だというのはその通りだ。しかし、「あらゆる支援」が自治体や国を通して行われるべき、というのは、現実にそぐわない。

神戸新聞の木村信行編集委員が、5月15日付紙面で、これを「行政万能主義、ここに極まれりの感がある」と批判した。

〈行政は万単位の被災者の状況を細大もらさず把握し、常に適切に対応できるというのだろうか〉

〈阪神・淡路や東北、熊本の被災地で、地震直後に行政の手が足りない隙間をいち早く埋めたのはボランティアたちだ〉

すると、今村市長は「捨て置けない」として、ブログに再反論を掲載した。

〈それ(=被災者の状況を最大もらさず把握し、常に適切に対応)を要求されるのが行政です。そして、その要求に応えるために、"地域の"ボランティアと日頃から連携しています〉

そして、阪神・淡路大震災の時も、「行政の手が足りない隙間をいち早く埋めた」のは、被災した地域住民自身であり、「”外からの”ボランティア」ではなかった、と強調した。

ブログに見る被災者の「心の傷」

東日本大震災で津波の被害を受けた被災地
東日本大震災で津波の被害を受けた被災地

今村氏の筆致からは、「”外からの”ボランティア」に対して、強い怒りや憎しみさえ感じる。なぜだろうと思いながら過去のブログに当たってみると、東日本大震災の直後、彼はこんなことを書いていた。

〈16年前(=阪神・淡路大震災の時〉に私は被災し、実家を全焼して失いました。それいらい、私はよほど小さな地震でも、気分が悪くなるほど怖いです。記憶よりさらに奥のところに、あの恐怖が刻みつけられている気がします〉

〈(東日本大震災が起きて)悔しくて、悔しすぎて、記憶から消していたことが、いろいろ蘇ってきて辛いです。

ひとつは、観光気分で来た自分探しボランティアの連中のこと。彼らは、人から感謝されることを楽しみにやってきただけでした。(中略)そんな彼らに「惨めな被災者」と扱われる屈辱〉

東日本大震災の後、民間団体による物資支援に多くの被災住民がやってきた
東日本大震災の後、民間団体による物資支援に多くの被災住民がやってきた

阪神・淡路の時に、なんとか被災者の役に立ちたいと活動した人たちはたくさんいて、だからこそ、この年は「ボランティア元年」とも呼ばれている。ただ、現地入りした人の中には、ここに書かれているような「自分探し系」の人たちが被災者の心情を逆なでしたケースもあったようで、そのことは、当時も言われていた。今村氏はそういう残念なケースに当たってしまい、「外から」やってきた人に自分の誇りを踏みにじられたことが、今なお心の傷になっているのだろう。

いかに被災時のトラウマが、その後の人生にも大きな影響を与えるかを、このブログからうかがい知ることができる。それについては、できれば臨床心理士などのカウンセリングを受けて、傷をできるだけ癒やしていただきたい、と思う。ただ、このトラウマのために感情のコントロールがうまくできないとすれば、そのままで自治体の長という重責を担っていることに、(最終的に西宮市民が判断することだが)あやうさを覚えないわけではない。

「官」と「民」の得意分野

確かに、混乱時に、個人のボランティアが用意も不十分なまま被災地を訪れたり、被災自治体に問い合わせをしたり、個人が細々とした荷物を送るのは、たしかに迷惑に違いない。これについては、今村市長の言う通りだし、被災地支援をしている民間団体も、様々なメディアも、善意が迷惑を及ぼす事態にならないよう、ボランティア志望の人たちに呼びかけている。

それを前提に、今村市長の意見が決定的に間違いだと思うのは、ボランティアなど「民」の力は、行政の下請けではない、ということだ。また、経費を削減するために、本来「官」がやるべき仕事を、「民」に丸投げするのも間違っている。「民」の活動は、本来はそれぞれの自由意思に基づいて行われるものだ。しかも、「官」と「民」は、その役割や得意とする分野が異なる。

たとえば、危険を伴う人命救助や捜索などは、自衛隊や消防、警察など訓練を積んだ組織が大きな力を発揮する。救助犬の派遣など「民」が果たせる役割があるとしても、限界がある。発災直後に、おにぎりなど種類の限られた食糧や水を大量に一斉に被災地に届けるなど、「大量」「一律」といった支援も、「官」が得意とするところだろう。避難所を設営したり、仮設住宅を作るなど、大がかりな支援も「官」によってなされる。そうした時に「官」が意識するのは「公平性」で、やはり「一律」の支援策が提供されることになる。

一方、「民」は一人ひとりの被災者の状況に応じて様々な支援をするなど「個別」の「多様」な活動で、とりわけ力を発揮する。行政が把握していない避難所に物資を届けたり、避難所生活が困難な人たちを助けたり、あるいは行政が見落としている課題をみつけて、それを問題提起したり、あるいは自分たちで解決したり……。

経験を積む民間のエイドワーカーたち

しかも、民間の災害支援とは、時間をみつけて個人で参加し、地元の災害ボランティアセンターの指示で、様々な手伝いをするボランティアだけではない。今は民間の中にも、専門性を持った災害支援の組織が育ってきている。そこに所属するスタッフの中には、いくつもの被災地で活動して、「こんな大きな災害を経験するのは初めて」という被災自治体職員より、遙かに災害の実地経験を積んでいる、被災者支援のプロフェッショナルもいる。そうした組織は、時期に応じて適切な支援をしながら、息の長い活動も可能だ。もちろん、今村市長が言うように、地域の中からも、行政から忘れられた被災者に寄り添い続けている人たちがいる。

浦野愛さん
浦野愛さん

私は、こうした人たちを呼ぶのに、「素人が時間のある時に無償で奉仕する」といったイメージの強い「ボランティア」という言葉はそぐわないような気がする。それで、私は拙稿〈進化する「民」の力(下)〉の中で浦野愛さんを「エイドワーカー」と呼んだ。

また、民間組織のネットワークもできている。今回の熊本地震では、そうした組織やネットワークがフルに活動し、思いもよらなかった大地震に混乱した現地自治体の役割を一部補完したり、専門的な見地から助言する場面も出ている。拙稿の中で紹介した熊本市が避難所を集約した時など、外からの支援がなければ、どれだけ悲惨なことになったか、想像に難くない。また、そうしたネットワークは、外の支援者だけではなく、被災地のNPOと共に構築されている。外はだめで、内はOKというのは、いわば自治体のメンツのようなもので、被災者にとっては実にナンセンスだ。

大切なのは連携

被災地支援で大切なのは、異なる得意分野を持つ「官」と「民」の両者が、それぞれがやるべき仕事をしつつ、うまく連携することし、できるだけ効果的な支援をすることだ。

西宮市の「地域防災計画」でも、「大規模災害発生時における時系列的防災活動のイメージ図」の中で、発災から6時間後には、災害ボランティアを受け入れ、「ボランティアと連携を図る」と記されている。ただ、市のトップが「ボランティアは自治体の下請け」という発想だと、果たして適切な連携が取れるのだろうか。

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今村市長ほど強烈ではなくても、同じように「あらゆる支援が自治体や国の指示の下に行われるべき」と思っている自治体首長がいないとも限らない。自治体の長や災害担当者はむろんのこと、できるだけ多くの人が、拙稿〈進化する「民」の力(上)〉で紹介した、「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク準備会」(略称JVOAD)の栗田暢之代表の次の言葉を、よく意識しておく必要があるような気がする。

「もはや『官vs民』などと言っている時代ではありません。災害には『官』だけでも、『民』だけでも対応できない」

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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