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【再審無罪・袴田事件】検察は控訴せず、検証をせよ

江川紹子ジャーナリスト・神奈川大学特任教授
判決の後、集まった支援者の前で、笑顔で無罪の判決を報告する袴田ひで子さんと弁護団

 1966年に静岡県の味噌製造会社の専務一家4人が殺害・放火された事件の再審で、静岡地裁(國井恒志裁判長、谷田部峻裁判官、益子元暢裁判官)は死刑が確定していた袴田巌さん(88)を無罪とする判決を出した。判決は、自白調書、犯行着衣とされた「5点の衣類」など、3つの重要証拠を捜査機関による「捏造」と断罪した。

「ねつ造」の可能性を認めた再審開始決定

 「5点の衣類」の「捏造」について、裁判所が最初に言及したのは、10年前に出された同静岡地裁(村山浩昭裁判長、大村陽一裁判官、満田智彦裁判官)の再審開始決定だ。

〈袴田が本件の犯人であるとする最も有力な証拠が、袴田の着用していたものでもなく、犯行に供された着衣でもなく、事件から相当期間経過した後、味噌漬けにされた可能性がある(中略)このような証拠が、事件と関係なく事後に作成されたとすれば、証拠が後日ねつ造されたと考えるのが最も合理的であり、現実的には他に考えようがない。そして、このような証拠をねつ造する必要と能力を有するのは、おそらく捜査機関(警察)をおいて他にないと思われる〉

 2度目の抗告審である東京高裁も、ほぼ同様の表現で「捏造」に言及。「もはや可能性として否定できないものといえる」とした。

より踏み込んだ今回の判決

 この両決定が、高い「可能性」として「捏造」を論じていたのに対し、今回の再審判決はさらに踏み込んだ。

〈本件事件から相当期間経過後の発見に近い時期に…捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、1号タンク内に隠匿されたもの〉

〈5点の衣類を犯行着衣としてねつ造した者としては、事実上、捜査機関の者以外に想定することができない

 「発見」からわずか11日後に、当初の検察側主張に沿わない「5点の衣類」を証拠請求するなど、検察官の「臨機応変かつ迅速な主張・立証活動」についても言及。「捏造」の背景にある警察・検察の連携を示唆した。

 判決は、確定判決の根拠になった、検察官による自白調書も「捜査機関の連携により…非人道的な取り調べによって…実質的に捏造されたもの」と厳しく批判している。これもまた、警察と検察の連携で証拠の捏造がなされた、という判断だ。

判決前に支援者と共に静岡地裁に向かう袴田ひで子さん(中央)。手にしているのは、1月になくなった西嶋克彦弁護団長の遺影
判決前に支援者と共に静岡地裁に向かう袴田ひで子さん(中央)。手にしているのは、1月になくなった西嶋克彦弁護団長の遺影

検察の衝撃と反発

 判決がここまで踏み込んだことに、検察側は衝撃を受け、反発も少なくないようだ。それを、検察OBが次のように代弁している。

〈警察だけでなく、検察も証拠を捏造したとの指摘には論理の飛躍があり、容認できないはずだ。(中略)検察は控訴して上級審の判断を仰ぐべきだ〉(9月27日付読売新聞掲載の元検事・高井康行弁護士の談話)

〈捏造をしたという具体的な裏付けが示されているとは言えず、非常に不満が残る判決だ。(中略)上級審の判断を仰ぐべきではないか〉(同日付朝日新聞掲載の元最高検次長検事・伊藤鉄男弁護士の談話)

元裁判官も想定外だが、検察官控訴には否定的

 判決の踏み込み方が想定外だったのは、検察OBだけではないようだ。山崎学・元東京高裁裁判長は、毎日新聞に寄せた談話の中で、こう述べている。

〈想像を超えてかなり踏み込んだ判決だ。(中略)力の入った判断で、裁判官の意気込みが感じられる。ただ、ここまで踏み込む必要があったかどうかについては意見が分かれるだろう〉

 ただ、山崎氏はそれに続けて、再審請求審が長期化した問題に触れ、「長期に及んだ再審請求審と再審で、検察の主張は退けられた。さらに審理しても結論が変わるとは考えがたい」として、検察の控訴に釘を刺している。

控訴して有罪が立証できるのか

 山崎氏が挙げた「長期化」の原因は、検察側が長期にわたって、重要な証拠を隠し続けてきたことにある。そして今、複数の科学鑑定によって、「5点の衣類」を「犯行着衣」と見なすのは、もはや不可能だ。事件と袴田さんを直接結びつける証拠はなくなった、と言える。再審において、有罪の立証責任が検察にあることは言うまでもない。

過去の死刑再審は

 有罪を立証できる見込みがないのに控訴するようなことがあってはならない。だからこそ、戦後の死刑再審4事件は、いずれも検察は再審で有罪を主張し死刑の求刑をしたにもかかわらず、無罪判決に対しては控訴しなかった。

 免田事件で熊本地検は「判決には承服しがたいところもあるが、控訴審で原判決を覆すことは困難と思料される」と控訴断念の理由を述べた。島田事件でも、静岡地検は「控訴しても、無罪判決を覆すだけの新たな証拠がない」と説明している。

過去の無期懲役再審は

 戦後の事件で無期懲役刑が確定し、その後再審無罪となった5事件でも、検察は控訴していない。1950年に北海道北見市で発生した強盗殺人事件の共犯として無期懲役刑が確定した男性の「梅田事件」、1967年に茨城県で起きた強盗殺人事件で2人の男性の無期懲役が確定した「布川事件」の再審では、検察側は有罪を主張して争い、再び「無期懲役」の求刑を行ったが、それでも控訴は断念した。

 梅田事件で釧路地検は「すでに36年を経過し、新たな証拠を見出すことは困難」として控訴断念を発表。布川事件でも水戸地検は「事件から40年以上経過しており、補充捜査をしても新たな立証を行うのは困難。無罪判決を覆せる見込みが立たないという判断に至った」と判断の理由を説明している。

 袴田事件は、発生からもう58年が経過しているのだ。

2010年、再審が始まった当時の布川事件の桜井昌司さん(右)と杉山卓男さん(いずれも故人)
2010年、再審が始まった当時の布川事件の桜井昌司さん(右)と杉山卓男さん(いずれも故人)

「ねつ造」否定のための控訴は邪道

 今後、新たな有罪立証ができるのか、という問いを、検察は冷静に自らに投げかけるべきである。有効な有罪立証ができるという確信がないのに、「ねつ造」認定への反発から控訴し、これ以上裁判を引き延ばすとすれば、それは検察のメンツのための行為でしかない。検察のあり方として、まったくの「邪道」である。

 最高検が作った倫理規定「検察の理念」には次のような文がある。

自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、時としてこれが傷つくことをも恐れない胆力が必要である。同時に、権限行使の在り方が、独善に陥ることなく、真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する、謙虚な姿勢を保つべきである〉

 自ら作った倫理規定を、今こそ読み返すべきだろう。

 判決翌日の新聞各紙は、1面や社説で検察の控訴断念を求める意見を掲げた。

〈検察は控訴断念を〉(読売・一面)

〈検察は控訴断念を〉(朝日・一面)

〈検察は控訴断念を〉(毎日・一面)

〈検察は控訴すべきでない〉(産経・社説)

 日頃は、主張が異なるメディアがほぼ同じ見出しを掲げている。日経新聞も社説で「検察は控訴せず、一日も早く袴田さんを完全な自由の身に戻さねばならない」と述べ、東京新聞もやはり社説で「検察は控訴してはならない」としている。

 この事件を長く取材してきたメディアの目から見ても、裁判をこれ以上引き延ばすことは、ありえない、ということなのだろう。

判決後の記者会見が始まる前、判決文を読みふける袴田ひで子さん
判決後の記者会見が始まる前、判決文を読みふける袴田ひで子さん

 様々なメディアで、拘禁症で心を病む袴田さんや支える姉のひで子さん(91)の姿を見てきた国民の多くも、「一日も早く袴田さんを真に解放するべきだ」(朝日)と思っているのではないか。

 それを敢えて控訴すれば、ただの弱い者いじめにしか見えず、到底人々の納得は得られまい。そうでなくても、「政治とカネ」問題での検察の対応には不満の声が小さくない。取り調べのあり方を巡っても、検察の様々な問題が明らかになっているというのに…。

検察がなすべきは

 今年7月、女性で初めて検察トップに就任した畝本直美・検事総長は、検察庁のホームページの中で、次のように抱負を語っている。

〈検察が国民の信頼という基盤に支えられていることを心に刻み、全国の検察職員が、その職責を深く自覚し、熱意をもって職務に取り組むよう、力を尽くしたい〉

 この抱負を実行し、検察が「公益の代表者」(検察庁法)たらんとするなら、畝本検事総長がやるべきは、控訴期限を待たず、一刻も早い控訴断念を指示することだろう。そして、なぜ本件で袴田さんを犯人としてしまい、その救済に途方もない時間がかかってしまったのかを自ら検証し、今後の法改正に協力していくことだ。

 畝本氏以下検察の「胆力」が、今、試されている。

判決後に行われた記者会見で話す小川秀世・弁護団事務局長(中央) 写真はすべて筆者撮影
判決後に行われた記者会見で話す小川秀世・弁護団事務局長(中央) 写真はすべて筆者撮影

 

ジャーナリスト・神奈川大学特任教授

神奈川新聞記者を経てフリーランス。司法、政治、災害、教育、カルト、音楽など関心分野は様々です。2020年4月から神奈川大学国際日本学部の特任教授を務め、カルト問題やメディア論を教えています。

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