【災害支援】進化する「民」の力(下)
私が熊本市総合体育館(熊本市中央区)に着いた時、浦野愛さんは50代くらいの女性の背中をさすっていた。浦野さんは、名古屋に本拠地がある被災者支援のNPO「レスキューストックヤード」(RSY)のメンバーで、今回の熊本地震で現地支援に入っている。
女性は怒っているようだった。
「そうですよね……」
浦野さんは、時折相づちを打ちながら、ひたすら話を聞く。ひとしきり喋ると、女性は去って行った。
一律の基準ではすくいきれない個々の事情
熊本市でも多くの被災者が避難していたが、ゴールデンウィーク明けに学校の授業を再開することなどもあり、市内161カ所に開設された避難所を、21カ所の「拠点避難所」に集約することが決まっていた。この体育館は「拠点避難所」に指定され、翌日から東区の学校に避難していた、家が全半壊した人たちなどが移転してくる予定だった。
市は、プライバシー保護のために段ボールで間仕切りを設置して、布団がやっと2枚敷ける程度の生活スペースをするなど、この日のうちに準備をすることにしていた。浦野さんが所属するNPOなどに、熊本市から依頼があり、避難所にはどのような機能が必要かをアドバイスしたり、実際の設営準備も担当した。
ただ、この体育館には、すでに近隣の被災者が避難していた。一番広いアリーナは天井が一部落ちるなどの被害があったため使えずにいたが、武道場や談話ホール、会議室などで避難生活を送っている人たちがいた。そうした人たちは、準備作業のために廊下へと出された。しかも、その多くはここでの生活スペースを与えられない。館内での避難を続けたい人が抗議し、行政側も廊下で寝泊まりすることは認めたが、ここで避難生活を送ることが正規に認められた人たちと違って、敷物や布団の提供などのサービスは受けられない。家の被害が大きくない人は、早く避難所を出て、自宅に戻って自力で生活してもらいたい、というのが行政側の意向だった。
それに対し、「余震が続いて、家で寝るのが怖い」など、体育館での避難生活を望む人たちは、「市は、血も涙もなか……」と憤慨していた。
さきほどの女性も、その一人。
女性は、「『怖い』という感情は人によって違いますから。怖いものは、怖いですよね」と浦野さんに自分の気持ちを肯定してもらって、ひとまずは心を落ち着けたようだった。
廊下には8ヶ月の赤ちゃんを連れた、10代のお母さんがいた。赤ちゃんのために、少しでも静かな場所を探していた。浦野さんが話を聞くと、実家の事情もなかなか複雑なよう。浦野さんは、少し奥まったところに、落ち着けるスペースを見つけ、母子の移動を手伝う。
「福祉の支援が必要な人たちもいる。高齢者の2人暮らしで、また大きな地震があっても逃げられない、と不安がっている人もいました。家に戻れる人は、できるだけ早く戻ってもらうにしても、一律の基準で対応するのは難しいですよね。戻れない人には、戻れない理由をちゃんとヒアリングして対応しないと。そういうことを私たちが行政に情報を届けないと、つい一律な基準で処理されてしまいがちなので」と浦野さん。
猫の手も借りたい避難所準備
社会福祉士の資格を持ち、特別養護老人ホームのデイケアサービススタッフとして働いた経験もある彼女は、特に福祉的な観点を大事にして被災者支援に当たっている。熊本市総合体育館の準備では、足の悪いお年寄りなど配慮が必要な人たちや女性のための設備の必要性を説き、1階のトイレの近くに、要配慮者のための段ボールベッドを入れた生活スペースを確保し、授乳室や子どものプレイルーム、洗濯場や物干しスペースなども準備することになった。
私は、二日間、浦野さんと行動を共にした。最初は、1日だけの密着取材のつもりだったが、途中からカメラとノートをしまって、浦野さんの下で作業をすることにした。まさに、猫の手も必要なほど、現場は忙しかったからだ。
要配慮者スペースを作るのには、まず床を掃除し、消毒薬をまき、段ボールで間仕切りをする。そこに段ボールベッドを組み立てていれる。小部屋を乳児室にするため、やはり掃除と消毒を済ませ、畳を入れ、必要な備品を発注する。女性更衣室を、女性の物干しスペースとすることにし、物干しスタンドを組み立てる。そうした作業の合間に、浦野さんは頻繁にかかってくる電話にも対応。途中、作業を仲間に任せて熊本市の隣の御船町での会議に駆けつけ、この町での行政と支援の人たちの情報交換を行った。町の福祉担当者との間に、率直で建設的な意見が交わされる。会議が終わると、浦野さんはすぐに体育館へとんぼ返り。避難所設営の準備が一通り終わったのは、8時半頃。その後、今回の被災地支援を行っている様々な団体と地元NPOが情報交換をする「熊本地震支援団体火の国会議」の会場に向かい、今日の活動を報告した。
一人ひとりの生活をイメージする
翌日は、いよいよ移転。浦野さんは午前9時には体育館に着いてスタンバイ。受け入れ開始の直前、いくつかの問題が生じたが、それでも被災者を乗せたバスは到着する。自分の車でやってくる人もいる。歩くのが大変そうなお年寄りを見るたびに、浦野さんは駆け寄って状態を聞く。
妻が歩行困難な夫婦は、前日に用意した要配慮者スペースに案内し、他県から応援に来ている医療スタッフを呼んで問診が受けられるようにした。
一人で避難している高齢の女性は、前夜までこの体育館のトイレの近くの部屋で寝泊まりしていた、という。ところが、受付で指定されたスペースはトイレから遠い。女性も、移動を手伝うために付き添っていた親戚の女性も、困り果てていた。その場にいた行政職員にスペースの変更を頼んでも、「私の権限ではありません」とにべもない。浦野さんが、行政の責任者に切迫した状況を訴えて、トイレのすぐ近くのスペースに変更してもらうことができた。そこに、さっそく段ボールベッドを運び込む。組み立てられたベッドの上に座った女性は、「これなら大丈夫」とホッとした表情。付き添いの女性は「ありがとうございました」と深々と浦野さんに頭を下げた。
その付き添い女性と私が少し言葉を交わしている間に、浦野さんの姿が消えていた。次に支援が必要な人をみつけて、対応していたのだ。そうやって、片時も休むことなく、くるくると働き続け、昼食をとれたのは午後2時をかなり回っていた。しかも、その食事は電話がかかってくるたびに中断する。けれども、浦野さんの対応はいつも朗らかだった。
このときの状況について、私がまとまった話を聞けたのは、後日、浦野さんがいったん名古屋に戻り、所用を済ませて被災地に戻る直前のわずかな時間だった。
「一人ひとりの状況は違うので、その人が朝起きてから、トイレに行って、ご飯を食べて……と一日の生活をどう営むかを考えます。それがちゃんとイメージできないと、この避難所で本当に暮らせるかどうかが分からないので。お年寄りや障害のある人には、そういう福祉の視点が必須。最近は、医療の分野では災害が意識されて、専門的な訓練をしたDMAT(災害派遣医療チーム) やDPAT (災害派遣精神医療チーム)が現場に入りますし、災害看護が学問の領域としても確立していますが、『災害福祉』というのがないんですよね。その隙間にいる人たちが、福祉の支援とつながるコーディネーター役が必要で、私たち経験のある者が、そういう役割を求められているんだと思います。本当は、医療チームの中に福祉の専門家を一人入れるようにするといいのですが」
被災地で「本震」を体験
浦野さんは、大学一年生の時に、阪神・淡路大震災でのボランティアをしたことから、災害時の被災者支援に関心を持った。老人ホームのデイケアスタッフとして働いてきた時、東海豪雨水害があり、勤務していた施設も床上浸水の被害に遭った。その後、RSYが設立した際、栗田暢之代表から声をかけられて、スタッフとなった。以後、様々な災害現場で被災者に向き合うエイドワーカーの仕事を続けている。
今回は、4月14日の「前震」の翌日に、被災地入りした。大津町で宿泊したところ、そこで「本震」に遭った。ホテルの照明が消え、外に出ると多くの住民がブルーシートを引いた上に避難していた。近くに老人ホームがあった。外へ避難したお年寄りたちが、水分補給や体温の確保をできるよう、手伝った。さらに、人目につかない所に場所を整えて、おむつの交換ができるようにした。そして、夜が白々と明けた頃、お年寄りたちを福祉避難所に連れていった。
いったん、名古屋に戻り、それから態勢を立て直して、20日に炊き出しの道具などを積んだRSYの車で、浦野さんも再び被災地へ。いくつもの避難所を回って、特に福祉的配慮が必要な被災者の対応に当たった。
ある避難所に、20代の重度心身障害の女性がいた。おむつの交換の時など、母親は周囲に気兼ねをしつつ、他の人の視線も気にしていた。夜も、灯りがついているため、眠りやすいようにとタオルを顔にかけたところ、周囲の子ども達から「死人がいる。死んだ、死んだ」とはやし立てられ、心が折れそうだと、母親は涙ながらに浦野さんに語った。
浦野さんは、すぐ避難所の建物を調べ、空き部屋が一つあるのを見つけた。そこを多目的室にして介護用品を入れ、おむつ交換や清拭などの時に、人目にさらされずに済むようにした。自治体の福祉課に連絡し、女性の避難先を探した。民間組織のネットワークもフルに活用したが、短期で入所できる施設は見つからなかった。そこで、介護の必要な人向けの福祉避難所に移すことになった。その福祉避難所の環境改善にも取り組んだ。
医療・保健とは別に「災害福祉」の観点が必要
この女性に関しては、これで一安心と思っていたら、しばらくして、母親から電話があった。泣きながら「もう、ここの福祉避難所にはいられない」と言う。福祉避難所を運営している保健師の管理が厳しくて、「もう耐えられない」とのこと。
「今、この女性に必要なのは、医療や保険ではなく、暮らしを支える介護・福祉なんですね。ベッドからトイレまでの距離、必要な生活物品などを考えて、その人が日常生活での行動を取りやすい環境を整えるようにすること。そういった生活を支える福祉の視点が必要です。なのに、管理する側が、もっぱら医療・保健の観点からの管理しやすさを優先させてしまったのでしょう。
ただ、それはその保健師さん個人の問題ではなく、職員の配置の問題なんです。そこに1人福祉の人を入れて、保健師さんは医療・保険の専門家として、本来の役割ができるようにしないといけない。災害救助法の枠組みで、それはできるんです。内閣府のガイドラインでは、福祉避難所の利用者が10人に1人相談員を置けるとしているので、ソーシャルワーカーやケアマネージャーなど、福祉の経験のある人を相談員として置けば、1人ひとりに必要な支援を組み立てられるんです。その人件費は国費でカバーされるので、『使わない手はないですよ』と役所にはお伝えするんですが……」
浦野さんは、これまでの豊富な被災地経験の中で、今回ほど避難所運営に係わったことはない、という。
「避難所は、人間が生活する最低限の環境が整っていることと、人と人の関係性が断たれないことが重要。『最低限の環境』とは1にトイレ、2に寝床、3に食事です。トイレに安心していけること、発災直後は仕方がないとしても、2週間もしたらマットや布団などはないと。災害救助法の枠組みでできることはたくさんあるので、それをもっと活用すべきです。熊本に限ったことではありませんが、よく行政の人は、『あんまり居心地よくすると帰らなくなる』と言います。口に出して言わなくても、そういう態度が見えます。自治体の職員は、災害救助法の内容をよく把握してないのではないでしょうか。国も、ガイドラインを作ってはいるものの、紙を配っているだけで、その内容を本当に周知させていないのではないですか」
だからこそ、浦野さんたち民間の力が必要になってくる。
「だからといって(民間に)丸投げも困る。行政と民間はうまく連携できるよう、日常からイメージの共有ができるといいのだけど……」
よりよい連携のためには、事前の備えが大事
それにしても、経験を積んで専門知識も豊富な民間のエイドワーカーたちに比べ、地震への備えが不十分だった今回の被災地の自治体の動きは、対応が遅すぎるうえ、現行の支援制度も十分に活用できていないように見える。
「それは、熊本に限ったことではなく、常総市の水害でも同じようなことを感じました。その原因の一つは、私たち民間が経験を積んで対応のスピードが速くなったこと。もう一つは、自治体の財政が厳しくなって、職員の数が限定され、日常の職務で手一杯で、非常時である災害について勉強したり準備したりする時間がないからかもしれない。いざ災害となれば、日頃は福祉に係わっていない人でも、避難所運営に係わらなければならない。最低限抑えるべきことは事前に勉強しておくことが大切だと思います」
災害という非常時に、できるだけ適切な対応をするには、平時の備えが大事。
さて、これを読んで下さっているあなたが暮らす地域の自治体は、どうでしょうか。