【光る君へ】再び都を襲った疱瘡。いかに藤原道長といえども打つ手はなかった
大河ドラマ「光る君へ」では、次々と政治的な混乱が勃発するが、一方で災害や疫病も頻発した。ここでは、長徳4年(998)5月に問題となった疱瘡(ほうそう)の流行を取り上げることにしよう。
藤原道長が内覧に就くことができたのは、長徳元年(995)に兄の道隆、道兼が相次いで亡くなったからである。道隆の死因は、酒の飲み過ぎに伴う糖尿病だった。
しかし、道兼の死因は、前年から大流行していた疱瘡だったといわれている。当時、疱瘡に対しては、ほぼまったく対処のしようがなく、神仏にひたすら祈るよりほかに手がなかった。
長徳4年(998)5月、疱瘡が大流行した(『日本紀略』)。それは、稲目瘡(いなめがさ:麻疹の古名)または赤疱瘡(麻疹の古名)と称されるものだった。
人々の中には、疱瘡に罹らなかった者はいないとまでいわれた。ところが、佐伯公行だけが疱瘡に罹らなかったという。それはなぜだろうか。
公行は、かつて国家鎮護のため清閑寺(京都市東山区)を再興し、のちに御願寺に加えられていた。そうした功徳を積んだ公行は、疱瘡に罹らなかったということを強調したのかもしれない。
いずれにしても、夏から冬にかけて疱瘡は蔓延し、多くの人が亡くなったのである。疱瘡が猛威を振るったので、それは朝廷の政治にも大きく影響した。
『小右記目録』によると、疱瘡に罹った貴族があまりに多く、「殿上に人なし」というありさまだった。大臣以下の人々は疱瘡に罹ってしまい、中には亡くなる者もいたのである。
先述のとおり、当時の医療レベルでは、人々を疱瘡から救うことができなかった。できることは、神仏にすがるよりほかがなかったのである。
同年7月5日、疫病を終息させるべく大祓いを行い、また相撲を取り止めた。さらに諸国の諸寺に対して、仁王経、大般若経を転読させたのである。
同年7月12日には、ついに藤原行成が疱瘡に罹ったので、道長は病状を問うた。その3日後、職務の遂行が難しいと判断した行成は、ついに職を辞する覚悟をしたほどだった。その後、貴族の中には疱瘡に罹ったことが原因で、命を落とす者が続出したのである。
疱瘡はなかなか終息しなかったので、多くの人が不安に陥れられた。不安になったのは道長も同じだったが、何らなす術がなかったのである。