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専門家が教える「子育てがうまくいかない時」に知っておくとうまくいく言葉3選「1つのことに気づくだけ」

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

世間の女性を一般化して「女性というものは」と語るのは私の好むところではありません。しかしあえて語るなら、女性は男性に比べて、「優等生」の「お利口さん」だと言えるように思います。皆さん、ご自分の中学や高校の頃を思い出してみてください。男女どちらが「いらんこと」をすることなく、学校の先生に評価されていたでしょうか?

女子ですよね? 女子は「空気を読む天才」であり、その結果、指定校推薦枠をかっさらっていく天才でもありましたよね? というのが、私の偏見に満ちた見解です。

さて、今回は、子育てがうまくいかない時に知っておくとうまくいく言葉をご紹介したいと思います。

女性が子どもの頃から「いらんこと」をしない「空気を読む天才」だというのはすなわち、世間にあるていど生きざまを合わせることのできる天才だと言い換えることができます。要するに世間の目を気にすることに大きなストレスを感じない。ましてやそのことで病まない。

そういう人が親になった時、子も空気を読むことにさほどのストレスを感じない性格であれば、親子で仲良くやっていけるはずです。

しかし、子が空気を読む天才ではない場合、その必然の結果として、子育てがうまくいかないと嘆くことになります。親は空気を読む天才。しかし子は、世間に合わせることにしんどさを感じる。そのギャップがなぜ生じるのか、親は理解できない(か、理解したくない)。だから嘆くか、怒るか、諦めるかの三択になる……。

さて、子どもの頃から空気を読むことに意識を向けてきた親はそのことによって、じつは、心に宿る大切なものに無意識的に蓋をしてしまっています。しかし、そのことにご本人は自覚的ではない。つまり親は、子が意識的/無意識的問わず発する「世間と違うこと」を、意識的/無意識的問わず、抑え込もうとしている。これが、子育てがうまくいかない原因です。

あ、先にお断りしておきますが、それがいいとか悪いとかという話をしているのではありません。いい/悪いとはまったく独立に、原理的にそうなっているという話をしています。哲学にいいも悪いもないので。

さて、そういう人がぜひ知っておきたい言葉が以下。

人間とは精神である。

キルケゴールの『死に至る病』はこの一節から始まります。で、その「精神」の説明にまるまる1冊を費やします。では、精神とは何だとキルケゴールは言っているのでしょうか。その前に次の一節を。

人間は、無限性と有限性の、時間的なものと永遠なものの、自由と必然性との総合である。

無限性とか永遠とか自由とかというものは、簡単に言えば、なぜかは分からないけれど、気がついたらなぜかそう思っていた、そうしていた――そういったふるまいを誘発させる、私たちの心の作用です。

例えば、勉強すべきだ「と分かっている」にもかかわらず、部活ばかりしてちっとも勉強しない子がいます。その子の心理状態は次の1文に尽きます。すなわち、分かっているけれど、心の中の何者かが、部活という活動を通して「無限性」や「永遠」や「自由」を見せてくる。だからやめられないし、やめないし、やめたくない――。

それが何者なのかは、「精神」を知らない親にも、子本人にも、わかりません。ただ「ハーメルンの笛吹き男」の奏でる音楽にネズミたちが夢中になるように、どこかから聞こえてくる音楽につられて、ひとりでに部活に夢中になっている。そういう「目に見える事実」があるのみです。

これはつまり、「優等生」は耳が悪く、そうではない人は耳がいい――こう言えるかもしれません。「ハーメルンの笛吹き男」の奏でる音楽が聞こえないから「意思」の作用にアクセントを置いて世間の目を気にしつつ生きることができ、かつそのことに大きなストレスを感じないのです。

他方、耳がいい人は音楽の隅々まで聴けてしまうので(聴きたくなくても聞こえてしまうので)、無限性(永遠・自由)が前景化してくるのです。その必然の結果、意思が後景化する。つまり「分かっているけど」部活ばっかりして勉強しない――。

関係がそれ[ひとみ注:関係]自身に関係する場合、この関係は積極的な統一であり、それこそが自己なのである。

「ハーメルンの笛吹き男」の奏でる音楽とはじつは、人知を超えた超越的な力が生み出している音楽です。そのことを意識している状態が自己であり、精神である。キルケゴールはこう言います。具体的には、例えば以下。

子が親の言うことを聞かない場合、親は子を叱ります。あるいは、子のことが理解できず絶望します。しかし実際には、親も子も、なんらか人知を超えた超越的な力によって生かされている(生きてしまっている)存在です。

したがって、「この子はどのようなものを持って生まれてきているのだろうか」と洞察することによって、親子の関係は深まります。

子も同じです。親のことを毒親なんて言う前に、親はどのようなものを持ってこの世に生まれてきているのかを洞察しようと努めること。それが「精神」として「生かされている」私たちのやるべきことです。

いかがでしょうか。

子育てがうまくいかないと目に見える事象を取り上げて「この子のここがダメ。ここを矯正しなくては」と思う親が多いでしょう。しかし「それ」は親にいやがらせをするために子が意図的にやっていることではないのです。

つまり、親子関係がうまくいっていないケースは親子ともに、心に宿る無限性(永遠・自由)に気づいていないのです。さらには、無限性は人知を超えた超越的な力によって私たちの心に植えつけられているものだということを知らないのです。

親子で「ああでもない、こうでもない」といがみ合うというのは結局のところ、巨人が揺する瓶の中でケンカをしているにすぎないのです。

※引用:『死に至る病』キルケゴール・S(鈴木祐丞訳/講談社/2017)

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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