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東国で活躍した、マニアックな知られざる戦国の名将3人

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
忍城。(提供:イメージマート)

 今も「知る人ぞ知る」という、世には知られていないが、その筋では実力者として知られる人物が存在する。今回は、東国で活躍した、マニアックな知られざる戦国の名将を3人紹介しよう。

◎群馬県:長野業政

 数多くいる群馬県の名将のなかで選んだのは、関東管領の上杉氏に従った長野業政である。長野氏は上野西部に勢力を持つ国衆で、業政は関東管領の上杉憲政に仕えていた。

 憲政が北条氏康との戦いに敗れ、平井城から上野国に逃れると、これを支援したのが業政である。

 業政は上杉氏の再興を西上野の武将に呼び掛け、北条氏・武田氏に抗した。これが、箕輪衆と称された。業政は12人の子女を西上野の武将に嫁がせ、関係強化に努めた。

 永禄3年(1560)、上杉謙信が関東に出陣すると、業政は憲政や箕輪衆とともにこれに応じたが、その翌年に亡くなった。業政の没後、武田信玄による上野侵攻が本格化したのである。

◎栃木県:宇都宮成綱

 栃木県は宇都宮氏の礎を築いた、宇都宮成綱を取り上げることにしよう。応仁・文明の乱後の文明9年(1477)、成綱は父・正綱の病死により、宇都宮家の家督を継承した。わずか10歳の成綱を待ち構えていたのは、家臣である芳賀氏との抗争だった。

 永正9年(1512)、古河公方の足利政氏とその子・高基が抗争を繰り広げると、成綱は高基を支援した。しかし、重臣の芳賀景高・高勝父子は、政氏に与した。成綱が高勝を誅殺すると、芳賀氏一族との抗争が激化したのである(宇都宮錯乱)。

 高基の命を受けた諸将の支援により、2年余の時間をかけて、ようやく事態は収拾する。成綱は子を一族の武茂氏らに送り込み、関係の強化に成功したのである。

◎埼玉県:成田長親

 埼玉県の名将と言えば、忍城の水攻めを耐え抜いた、成田長親を挙げるよりほかはないだろう。長親は成田氏の一族で、成田氏長に仕えていた。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原征伐に着手すると、氏長は北条氏に与した。長親は城代を任された父・泰季とともに、忍城を守備したのである。

 忍城の攻撃を任されたのが、石田三成の率いる軍勢だった。三成は秀吉の指示を忠実に守り、忍城の水攻めに着手した。しかし、城代の泰季が急死すると、急遽、総大将を任された長親の巧みな計略もあって、三成の水攻めは功を奏しなかった。

 結局、長親は小田原落城後も、三成の攻撃を耐え抜いた。晩年は、尾張国に隠退したと伝わっている。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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