ここにきて今年一番の傑作に出会ってしまったかもしれない、さいたまゴールド・シアター最終公演『水の駅』
2021年、不安な状況は続いたが、それでもたくさんの素晴らしい舞台に出会うことができた。だが、ここにきて今年一番の傑作に出会ってしまったかもしれない。
さいたまゴールド・シアター最終公演『水の駅』は、そんな幸せを感じる舞台だった。
さいたまゴールド・シアターとは、さいたま芸術劇場芸術監督であった故・蜷川幸雄氏によって創設された、高齢者の劇団員からなる演劇集団である。2006年4月に48名で発足して以来、15年間さまざまな作品に挑んできた。
それが、このたび解散することとなった。その理由は、近年はすべての団員で活動することが困難になっており、さらに「長引くコロナ禍が決定打となった」からだという。
最終公演として選ばれた演目は、太田省吾氏の代表作『水の駅』だ。一切のセリフを排した沈黙劇である。演出は、杉原邦生が担当する。
正直、俳優の演技に必要不可欠な要素としての「声」を、よりによって最終公演で奪ってしまうのは、どうなのだろうと思った。
ところが、いざ幕が開くと、それが浅はかな杞憂であったことに気付かされた。セリフが排されることで逆に、俳優の一挙一動に、豊かで繊細な表情の変化に集中できるのだ。
舞台上にポツンとあるのは、水道だ。傍には、廃棄物の山がある。さまざまな人物が、そこを通り過ぎていく。通りすがりに蛇口をひねって水を飲み、水で足を洗い、さまざまな物を捨て散らかしていく。
繰り返し流れるサティの「ジムノペディ」のメロディが、まるでこの作品の主題歌のようで、いつまでも耳に残る。
客席下手には、花道が設けられている。登場人物は基本的に、上手奥から登場し、ゆっくりゆっくり歩いて水道に立ち寄り、そして、花道からはけていく。
ここを歩き切ることはつまり「生をまっとうする」ことであり、花道は「人生の締めくくり」の場なのだ。
そう気付いたとき、最終公演にこの作品が選ばれたこと自体に唸らされた。1981年に初演されたこの作品は、中国生まれの作者の、敗戦による引き上げ体験が根源にあったという。今回の上演では、「人が、生をまっとうしようとする姿」が重ねて描かれているように思えた。
さらに、最初に登場する「男b」の去り際の、その背中には「さいたまゴールド・シアター」の看板が、まるで夕日のように輝いて見えた気がした。花道で見せた万感の想いのこもったその表情に、このカンパニーに対するリスペクトが感じられた。この役に、客演の小田豊を起用した意味がわかったような気がした。ここだけは、このカンパニーをメタで見据えた、プロの役者の技だった。
ただひとり、例外的に花道を通らないままに生を終えてしまう登場人物がいる。それが、客演の井上向日葵が演じる「若い女」だ。まるで棺桶のような大きな箱を背負って登場し、そのまま自分を箱に閉じ込めてしまう顛末は、なんともやるせないものがある。その亡骸もまた、老人たちの手で淡々と葬られ、廃棄物の山へと運ばれていく。
後半は一転し、まるで世界といのちの相剋のようだった。穏やかな日常生活を一瞬にして破壊してしまうもの、それは戦争なのか、天変地異なのか。それでも人はたくましく生き続けるのだ。
生(性)への執着を感じさせる凄まじい表情を、生々しい肉体を、惜しげもなくさらけ出すゴールド・シアター俳優たちの役者魂。
だが、そこに不思議な美しさがある。歪んだ恍惚の美しさ、老いた肉体の美しさ。美しさとは若さにだけあるのではないという、人の奥深さを見せつける。
それは、生の祝祭劇だった。生を全うするということは、かけがえのないことなのだ。
そして最後に「大きな荷物の男」が、背中に黒い風船を背負い、杖をつきながら一歩一歩進み出てくる。それまで通り過ぎた人々が捨てていった物を、綺麗に始末して去っていく姿は、なんてかっこいいのだろう。花道で振り返るときの、人生のすべてを愛おしむような表情は、なんと味わい深いのだろう。
カーテンコールでは、俳優一人ひとりが名前と年齢を言っていく。70代、80代が中心で、最高齢の方は95歳だった。車椅子に乗った人もいた。
まさに高齢者だけで創り上げた、等身大の舞台である。
ふと、「虚実皮膜の間」という言葉を思い出した。プロの俳優が作り出す巧みな「虚」の世界とは一味違う、だが、アマチュアとはいえ蜷川幸雄指導の元で訓練を積んできた俳優たちが、自己開示を恐れずに作り上げる世界は迫真に迫っている。
プロとアマチュアの狭間だから醸し出せる、絶妙なリアリティがそこにある。
舞台は一期一会だというが、この舞台こそ究極の一期一会だ。「再演」は決して、二度とないのだ。最後の輝きを見逃すなかれ、である。