経験は消化不良を起こす:技能訓練の負荷マネジメント
技能を習得するにつれて、作業をする前からこれをこうすればこうなると「考えなくてもわかる」ようになります。
また、頭で考えながらやっていたことが、考えなくても自然にできるようになります。
技能に限らず日常でも、同様のことが起こります。例えば、箸の持ち方、自転車や車の乗り方、パソコンやスマホの操作方法など、生まれた時はできなかったもので、今は考えずに自然とできることが、いくつもあります。
熟達化研究の専門家アンダース・エリクソンは、「考えなくてもわかる、できる」状態が、心的イメージによって実現するとしています。
心的イメージとは、ある分野で技能を使うにあたって必要とされる知識や方法等の情報がパターンとして記憶に保存されたもので、特定の状況に適切に対応するのに必要なもののことです。「考えなくてもわかる、できる」状態だと感じた時、その人の心的イメージはそれ以前と比べて成長し、精緻になっていると考えられます。
技能五輪選手の心的イメージ
国内大会でトップクラスの技能を発揮する選手や、国際大会で上位の成績を獲得する選手は、精緻な心的イメージを持っています。
例えば、一つのミスが命取りになるような高難易度の競技課題に取り組んでいる時、重要な局面で作業ミスをしてしまう選手がいます。
こういう時、多くの選手の頭には「もうダメだな」という考えがよぎります。
しかし熟練した選手はそこからの対応が異なります。例えば、すぐその後に思考を切り替えて、起こる確率の高い原因を3つほど想定して、順番に原因の分析を行います。
その結果、比較的早い段階でミスの原因を突き止め、リカバリは困難だが「もうダメ」なミスではなく、全体の品質への影響は軽いという結論にたどり着いたりします。
そこで、さらなる品質の低下を予防するために計画を立て直し、制限時間内に可能な最善の作業を行うのです。
こうした一連の対処の結果、最終的にはそのミスは想定どおり全体の品質に大きく影響せず、十分に許容範囲となる品質で作業を終えることに繋がります。
このように「もうダメだな」から素早く切り替え、作業ミスの原因を突き止めて適切な判断ができる選手は、職種も年齢もバラバラですが、私が観察・調査している中で、2つの訓練の経験が共通していると考えています。
1つは、「考える順番」に関する訓練です。作業ミスのデータベースを作り、指導者と一緒に原因の分析手順や対処の優先順位などを構築しています。手を動かさなければ訓練ではないと感じる方もいますが、考えることも技能の一部といえます。
もう1つは、擬似的に「もうダメだな」という思考が起こるよう訓練の負荷を調整し、「もうダメだな」がインプットされた状態で「考える順番」を正しく思い出して実行する訓練です。
この2つの訓練を段階的に行い、多くの選手が「もうダメだな」と諦めてしまうような状況でも、思考を切り替え、適切な判断を選択する技能を習得していくと考えられます。
経験を消化して成長する
技能を伝えることは、人の成長と食べ物の関係に似ている部分があります。
生まれたばかりのときは、消化できるものやその量が限られます。したがって、離乳食のような消化しやすい食べ物を、少量ずつ食べることになります。
そうして食べたものを消化し、栄養に変えることで、徐々に成長していきます。
成長がすすむと、食べられるものの種類や量が増えます。それらの消化を通して得られる栄養も増え、さらに成長していきます。
このようにして人は、食べ物を消化し栄養に変え、成長していく側面を持ちます。
ですから、離乳食が必要な時期に大人と同じものを食べることは出来ませんし、万が一そうしても消化できないため栄養にならず成長につながらない場合や、逆に成長を阻害する場合もあります。
技能を伝えることも同様と考えられます。
訓練を通して、伝え手は受け手に様々な経験を提供します。受け手は経験を頭の中の作業場である「ワーキングメモリ」で消化し、経験を知識、やり方、水準、向上の仕組みなどに変換します。この消化は、「意味付け」とも呼ばれ、経験は意味付けされてはじめて経験の貯蔵庫である長期記憶に蓄えられます。
ですから、何の意味があるのかわからない経験は消化できない食べ物のようなもので、長期記憶に蓄えられにくくなります。この場合、経験を重ねても、技能の習得は進みません。
受け手の習得段階から考えると難易度が高過ぎる訓練課題や、訓練の量が多すぎると過剰な負荷となり、意味付けするために必要なワーキングメモリの作業を阻害するため、長期記憶に蓄えられにくくなるのです。この現象は「熟達化交互作用」と呼ばれます。
例えば、前述の選手は、「考える順番」について習熟した段階で、「もうダメだな」となる状況を再現し、高い訓練負荷の中でも「考える順番」を実行するように訓練をしました。
しかしもし原因分析の手順や対処の優先順位について十分に習熟していない段階で、「もうダメだ」と感じるような高い訓練負荷をかけられ、「考える順番」を発揮するように求められていたとしたら、過剰負荷となり、消化することは難しかったと考えられます。
つまり、受け手の成長段階に適した経験が訓練で提供されたとき、経験は消化され、受け手の心的イメージが成長して、技能の習得が進むと考えられます。
ですから、伝え手のみの基準で訓練の負荷を調整した場合、経験の消化不良が起こり、技能の成長が阻害されるかもしれません。
その経験は消化できているか?
経験を重ねることで人の技能は成長しますが、経験の質で、技能が成長する速度は変わります。
良かれと思って実施している訓練が過剰負荷の場合や過小負荷の場合、技能の成長は想定したよりもゆっくりだったり、全く成長しなかったりします。
なぜなら、経験が消化されず、心的イメージが豊かにならないからです。
その意味で、訓練において最も難しいことの一つは、最適な負荷を経験してもらうこと、すなわち負荷マネジメントだといえます。
最適な負荷の経験を重ねた先に、目配せしただけで、言わなくても何をすべきかわかるような、暗黙の了解や阿吽の呼吸が可能となるような技能の伝達があり、伝え手を離れ、受け手自身が自分の技能を向上させていく、すなわち自立した技能者になるのだと考えられます。
そうなるために、訓練を提供する伝え手は、常に「経験は消化できているか?」と問い続けることが求められるのです。
参考文献
- アーリック・ボーザー著、月谷真紀訳(2018)「Learn Better ― 頭の使い方が変わり、学びが深まる6つのステップ」英治出版
- アンダース・エリクソン、ロバート・プール著、土方 奈美訳(2016)「超一流になるのは才能か努力か?」文藝春秋
- S. Kalyug, P. Chandler, and J. Sweller.(2000) .Incorporating learner experience into the design of multimedia instruction. Journal of Educational Psychology, Vol. 92, pp. 126-136.
- 羽田野健, & 菊池拓男. (2018).技能者の熟達度によるコンダクト・スキルの分析と指導法の提案. 日本教育工学会論文誌, S42067.