北欧の選挙ポスター自由すぎ?日本との意外な文化差
北欧5か国の選挙取材をしている立場として、今年の東京都知事選では色々考えさせられた。筆者は北欧の選挙ポスター文化を何年も取材している。選挙ポスター空間において、北欧と日本の選挙現場はだいぶ違うようだ。
北欧の選挙活動は、日本ほどルールで縛られていない
とにかく、北欧の選挙運動といえば、驚くほど「ルールがない」。
飲食物や文房具など、金銭以外であれば「もはや、なんでもありか」というレベルで、政党が無料配布している。
もちろん、日本の方々にはびっくりするので、一応そのことは政党や市民には聞くが、「コーヒー1杯で好意をもったり、投票するほど、私はバカじゃない」(市民)、「それだけで1票につながるなら、どれだけ楽か」(政党)というのが定番の返答だ。
小さなプレゼントは、北欧では「政治のおしゃべりを始めるためのきっかけ」でしかない。コーヒーやシナモンロールが手元にあったほうが、政治の話はしやすいのだ。
ポスターに落書きする市民
同じように、選挙ポスター空間も野放し状態といえる。特にデンマークは見事だ。至る所に候補者のポスターが貼られている!
もはや貼ってはいけない場所のほうが少なく、とにかく人通りの多い学校や駅の周辺に何枚も貼る。候補者のポスターを同じ場所に並べて貼るのも当たり前だ。
政党以外にも、環境団体などが、その中に紛れて政党を批判するポスターを貼るのもありだ。これも市民運動だ。
賛同できない候補者のポスターに落書きしたり、はがしたりする市民もいる(もう定番の光景なので、べつにニュースにもならない)。市民に一番はがされやすいのは各国の極右政党だ。
候補者の顔写真に、黒いペンでヒゲを落書きする人は、必ずいる。個人攻撃や差別メッセージを書く人もいる。ポスターでは市民の言動も問われる。
街がポスターだらけ!=わくわく
「これだけ至るところで、1か月も政治家が笑顔で微笑みかけてきて、嫌にならないのだろうか?」と筆者は最初は驚いたが、
「え?祭りみたいで、むしろポスターで街が賑わって、うきうき、ワクワクしちゃう」なんてコメントも市民から飛んでくる。
どの国でも、各地に選挙ポスターを貼る仕事の中心は、各政党の青年部だ。デンマークでは場所取り合戦なので、10~20代の若者たちが、一斉に各地ポスターを貼る。もちろん、大臣や各議員も自分たちのポスターを貼る作業をして、その光景の写真を誇らしげにSNSに載せる。「わくわく、また選挙が始まるぞ!」という合図なのだ。
選挙ポスターで、政党の多様性や価値観が丸出しになる
選挙ポスターに政党や候補者の価値観がたっぷりと反映されるのは、市民にとってよい考える材料となる。平等や多様性を重要とする北欧市民は、政党の立候補者の顔が集まったポスター1枚を見て、即座に判断できる。
「候補者は高齢の男性ばかりか?」
「年齢や職業は多様性に溢れているか?」
「女性の候補者がトップにいるか?」
「若者はいるか?」
「ヒジャブをかぶっている候補者や移民背景の人はどれほどいるか?」
「白人ばかりではないか?」
ポスターや立候補者名簿で、政党の価値観を一瞬で見極めることが可能だ。ポスターに真面目に取り組まない政党は、政治や民主主義を尊重しないということだ。それでも投票するかは、市民が決めることだ。
ポスターや公約の紙には問題あることも
規制よりも、報道・みんなで話し合う
場所取り合戦なら、政党同士でケンカになることもあるか?たまにある。
スウェーデンでは、ある党員が、別の政党のポスターをはがして、自分たちのポスターを貼った。このことはトップに報告され、両党の党首同士が、トイレでそのことで「もめていた」、なんてエピソードがニュースになったこともある。
選挙ポスターというのは、政党の候補者の顔写真だけとは限らない。政党の公約メッセージなどが主役の場合もある。そうすると、極右政党が移民に差別的なメッセージを書いたりもする。あまりにひどいとニュースで取り上げはされるが。
「それって、どうなの?」というような差別的なメッセージが書かれているからと、「じゃあ規制しましょう」とはならない。それをし始めたら、政党が配布する公約冊子まで規制しなければいけない。北欧では選挙ポスターだけではなく、各党が配る何種類もの公約が書かれた「紙」がある。これを気にし始めたら、きりがない。
北欧各国には、国会に議席を持つ「極右政党」がいるが、実はこれよりもさらに右寄りの(国会に議席はない)「さらに右寄りの極右政党」というのが複数あったりする。冊子を手に取ると、人権や宗教否定、差別メッセージが詰まっているが、これも市民が政党を判断するための材料ではあるし、規制はされない。
ノルウェーでは、国会に議席がない、とある「さらに右寄りの極右政党」の党首が、偽物の剣を持って、選挙運動をしたことがある。さすがにこれは警察に通報され、罰金を支払うことになった。
選挙ポスターは、民主主義のバロメーター
北欧では、選挙ポスター空間、選挙小屋、討論空間は、選挙が始まったことを知らせる、「民主主義の祭典の象徴」であり、「民主主義の祭典が始まったことを知らせる合図」だ。選挙ポスターや各政党のスタンドの空間は、その国の民主主義の「現在レベル」を象徴している。
学校では、選挙を教材にする
日本の都知事選のポスター掲示板の件が、北欧で起きていたら?規制よりも、根本の問題である「民主主義の弱体化」「どうしてこのような行為をする社会になったのか、どうして支持する市民がいるのか、という構造の議論」になっていた気がする。
高校には18歳という「初めて投票する有権者」がいる。社会科の先生は、選挙空間を学びの場として活用するのだが、このようなポスター問題があったら、「待ってました」とばかりに翌日の授業の話し合いのテーマにして、教材にするだろう。
これを北欧の教育現場では「現象に基づく学び」という。今起きていることを基に勉強する、いわゆる「生きた教材」だ。若い人もこうして、自分の考えに近い政党や候補者、自分の価値観というものが分かってくる。
「私たちは、それほどバカじゃない」
冒頭でも触れたが、北欧の選挙空間が「規制・規制・規制」にならないのは、「私たちは、それほどバカじゃない」精神が市民に浸透していることもある。
むしろ「それって、どうなの?」という政党や候補者がいたら、メディアはニュースとして取り上げ、各政党で討論させたりする。
問題を起こす人物や行動は、選挙では避けられない。それが民主主義だ。嫌なものを排除しようとしたら、民主的な選挙空間ではなくなる。
選挙中のすべての出来事は、「それでも1票を託すか」「自分の価値観とどれほど近いかどうか」の判断材料となる。審判は開票日に下される。
北欧の「信頼」という社会構造
ここで、「信頼」という言葉について考えてみる。ちょうど、筆者はフィンランドの医療DXについて記事を何本か出した。どの記事でも「信頼」という言葉が、しつこいほどに登場する。なぜか?
「どうして北欧社会はこれほど早くデジタル化されているか」には、「信頼」という北欧の価値観が常にセットだからだ。この信頼文化は、各国のコロナ対策にも大きな影響を与えた。
日本と北欧の違い
筆者は北欧と日本社会の違いについて、よくこう説明する。
北欧は平等・信頼・自由ということがDNAなのです。平等を大事にするということは、競争を好まず、学校で成績をつけたがらず、優劣を決めたがらず、他者を信頼し、情報を公開し隠さず、共に協力しあいましょう、という社会になります。
反対にアメリカや日本は「競争」という側面が強い社会です。人口が多いために、学校では子どもたちに優劣の番号を付け、互いに競わせ、自己責任論が強く、優秀な人や裕福な人とそうではない人がいることを仕方ないとします。子どものころから競争していたので、大人になっても「競合」とかを気にして、ライバルに情報を盗まれたりするのではないかと疑い、心配し、他者(他社)を信頼しにくく、簡単には門を開きません、と。
「自由には責任が伴うって、わかってるよね?」が大前提
そして北欧諸国は「自由」を愛している。特に、デンマーク人は自由という言葉を熱烈に頻繁に使う。しかし、デンマークでは「自由」には「責任」という言葉もセットで語られる。
北欧で選挙空間がルールに縛られていないのは、政党や候補者が民主主義を尊重するだろうと信頼し、「自由には責任が伴う」ことが全ての市民に求められているからだ。
「信頼して任せる」ことは幸福度に関係する
ちなみに、北欧諸国が幸福度調査でトップ常連の背景には、自由も関係している。日本のようにルールばかりになったら、北欧市民の幸福度は下がるだろう。「ルールがどんどん作られている」ということは、「他者を信頼できないから、監視し、コントロールすることで安心する」社会基盤が強いからだ。
民主主義という言葉を呪文のように唱える北欧市民
都知事選でポスター掲示板の空間が荒れたのは、民主主義の根底が揺らぎ始めている反映だろう。
そもそも、北欧社会と比較して、日本では「民主主義」という言葉が日常的に使われていない。民主主義を尊重するという最低限の理が破られたから、「世間」を騒がせたから、手っ取り早くルール作りとなっている。しかし、本来必要なのは、民主主義の教育の在り方について根本的に問い直すことではないだろうか。
ちなみに、性的な画像が掲示板に出てきたことに関しては、日本ならではの問題として別に考える必要があるなと思う。というのも、日本は性において独特すぎる。性的な漫画やアニメがネットにあふれ、ポルノも量産している、電車に痴漢や盗撮などの独自の社会現象があり、ミソジニーが強く、なのに性教育は遅れているなどの要素が重なっているからだ。
北欧と日本のどちらがいい・悪いということを、ここでは言いたいわけではない。ただ、民主主義の現状レベルが反映される選挙空間で、今回は日本の課題が予想外の形であぶり出てきたのだと感じた。